宣教師と『太平記』 シリーズ<本と日本史> 4

 中世から近世初頭における「太平記」の重要性とその影響、イエズス会の「太平記」の扱いなどが書かれる。
 イエズス会は『日葡辞書』の例文で「太平記」を多く引用し、キリシタン版「太平記抜書」も作る。そして「日本小文典」では「太平記」を「平家物語」より上と極めて高く評価している。現在では中世叙事文学では「平家物語」の方が「太平記」よりも上とされている。その「日本小文典」の評価には、『当時の日本で一般的になされていた評価をある程度反映したものと見るのが自然だろう。』(P11)つまりキリシタンがいた時代の日本ではそれほど「太平記」が重視されていた。だからこそキリシタン版「太平記抜書」が作られた。
 中世の人々にとって「太平記」は『言葉の漢字表記に始まり、言葉の意味、事柄の由来、歴史的事実に至るまで『太平記』が参照され、典拠とされているという意味で、『太平記』はまさしく百科事典として用いられたといっても過言ではない。』(P32-3)そのように当時の人々にとって「太平記」は大変権威のあるもので、「太平記」に書いてあるということは大変重みや説得力があった。15、6世紀の人々にとって「太平記」は教養の源泉であった。
 「難太平記」を書いた今川了俊の「太平記」評価。『大体の記述は間違っていない、しかし軍功に関しては不正確な作り話が多い』(P35)。『今川了俊からみても『太平記』は権威ある歴史書として、当事者の証言を懲した上で正確に記述さるべき記録だったと思われる。(中略)本来『太平記』は先祖の武勲を正確に記すべき書であり、「いわば南北朝の動乱に関する正史」(加美宏『太平記享受史論考』百三十七頁)であると『難太平記』の著者自身が考えていたようである。』(P35-6)そのように権威ある書物だと認めていたからこそ、自分の先祖の武勲がきちんと書かれていないことなどに不満があった。「太平記」に記された先祖の事績はその家の名誉であり、また世間の評価と直結するものでもあった。
 『『太平記』は中世の日本人にとって、重要な知識の源泉であり、歴史として共有された過去の記憶であり、日常の娯楽の場でも大変なじみ深い存在であった。言い換えれば集積された過去の重要な遺産の一つであったといえよう。』(P52)それほど親しまれていたが近世後期以降の評価は芳しくない。その評価の一因には、色んな事が書かれすぎて書物の世界観や思想がわかりにくいということがある。
 「太平記」の思想。世の中を動かす人間の知恵や力量を超えた摂理である『大きな因果律の前では無力であることを自覚しつつも、最高の正義として支持されてきた儒教道徳を規準にするほかはないということになろう。決してすべてを理解し得ない因果律の存在と謙虚に向き合いつつ、しかし現実に対処するに際しては、人間の知恵がつくり上げてきた規範である儒教道徳に従うべし、というのが『太平記』の哲学ということになる。
 和田氏の述べておられるように「『太平記』に「名君」は存在しない」し、「「良臣」はわずかに存在する者の、彼らが活躍することも皆無に等しい」。それが乱世そのものなのである。人知で判断できる正義をふまえつつ、人知・人力の及ばない乱世を追体験させるのが『太平記』だということになる。』(P58)
 南北朝期から、現実社会の行動は儒教道徳に基づき、内面では目にみえない摂理への敬虔な信仰から仏法に帰依するという行動様式が理想的なものとして考えられるようになる。当時はそうした「太平記」にみられる思考様式が広く共有されていた。
 キリシタン版「太平記抜書」では、神仏の加護などのシーンはのきなみ削除されている。そのような改竄を加えてまでキリシタン太平記を読ませようとしたのは、16世紀後期になって布教方針を日本の習慣に順応しながら布教するという方針に変更したことと無縁でない。
 当時「太平記」は歴史書であり、武士にとっては武士の生き方を提示する書物であった。また「平家物語」も「太平記」と同様に『当時の人々にとっては、自分たちが何かについて判断を下す際の手掛かりともなる貴重な歴史的事実とされていたのである。』(P82)