アメリカ南部連合史

アメリカ南部連合史

アメリカ南部連合史

 アメリ南北戦争での南部連合の内政・外政・軍事的な動きが詳細に書かれている。「訳者あとがき」で『著者は本書の対象読者層を、すでに南北「戦争」の概略・経緯は理解しているものとして、戦時下の南部の政治、軍事、経済、思想、文学、大衆、奴隷その他社会全体を各章縦割りに記述を進めている。(中略)戦争の展開や顛末への時系列的な流れを本書に求める一般読者にはあるいは不親切とも受け取られるかも知れない。』(P547)と書いてあることからもわかるように、南北戦争についてある程度知った後に読むべき本だった。南北戦争に関する本を何冊か読んだ後に再度読みます。

 「第1章 保守派の反乱」
 『ジョン・ブラウンの蜂起は南部人民の感情のバランスを崩し、彼らに危機感を与えてしまった。』(P11)単独行動でなく北部奴隷廃止論者の陰謀と南部人は推論した。そして北部がジョン・ブラウンへ同情していることを、北部の南部社会に対する憎しみと考えた。
 そのように南部で北部に対する不信が大きくなっていた。そうした中1860年、リンカンの大統領選出が決定。現在ではリンカンは最初中庸路線を行こうとしていたことがわかっているが、南部では奴隷制度を崩壊させようとしているという危機感を持った。
 先ずサウスカロライナは連邦離脱へ熱狂し、その流れ止まらない。その熱狂は周辺地域にも綿花諸州にも伝播していく。
 1860年12月20日サウスカロライナで分離の政令が満場一致で通過。1861年1月9日ミシシッピが合衆国を離脱する二番目の州となり、翌日にフロリダ州、その翌日にアラバマ州、1月19日にジョージア州、一週間後にルイジアナ、2月1日にテキサス州が離脱。『低南部人民の大多数は一八六〇年一一月時点では分離に反対であるとみられていたにもかかわらず、合衆国の離脱の意向が次の二カ月の間に急速に拡大した。このような分離フィーバーの膨張は少数の指導者の策略の結果ではなく、人民の感情の高揚がもたらしたものといえる。分別ある妥協案が躓き、過激派が多数を占める他の州の先例が感染したのであった。』(P35)
 分離危機が始まった頃、事業者たちは深刻な事態を恐れて、『その結果事業家たちと実業会広報機関紙、ニューヨークのジャーナル・オブ・コマースは奴隷制度問題の妥協を歓迎した。』(P38)
 しかし北部事業家は沿岸貿易の北部独占については譲歩を拒否。一方で『南部は北部の商業者、運送業者、債権・金融業者に搾取されているとの強い感情を持っていた。(中略)このような経済上の義憤は、現実の上に思いすごしも重なって南部の民族主義の最大の要因のひとつ―経済的従属からの解放―となった。』(P39)
 「第二章 開戦の意思決定」
 1861年4月1日に南部連合は領域内の要塞を手に入れたが、サウスカロライナ州のサムター要塞と3つのフロリダ要塞にはいまだに合衆国の兵が詰めていた。領域内のサムター要塞を得るために南部連合は攻撃をはじめる。そして北部の民衆の支持もありリンカンはサムター要塞への増援を決める。リンカンはその時に志願兵を招集して、境界州に南部につくか北部につくかの意思決定を迫った。そのことでそれまで北部寄りだった境界州の心が離れていった。
 北南部における民意の指導的存在だったバージニア州は離脱の権利は知っていたが、それを方便として行使するのは疑問に感じていた。そして『合衆国連邦への愛着は強かったが、一方でこのバージニア人は離脱した州に対する連邦政府の威圧的態度には強い反発を感じていた。』(P57-8)結局バージニア州南部連合に加わり、そして北部支持派の多い地域にウェストバージニア州が誕生。
 ケンタッキー州は連邦にとどまったが、戦争中の合衆国司令官の圧政などもあって南部への同情は大きくなっていった。『アポマトックス(南軍降伏)以後、ケンタッキーは遡及してあたかも南部連合に加盟したかのごとく映る』(P69)。
 「第三章 南部連合共和国の成立」
 南部連合内の政治。指導的政治家の顔ぶれ、政局などが書かれる。
 ジェファソン・デイビスが大統領に選ばれる。『各州がそれぞれの支持候補に次ぐ次善選択として彼を選んだ。』(P85)歴史家の評価としては戦時の大統領としてはリンカンに劣る。著者曰く最も公正だという海軍長官マロリーのデイビス大統領の評価。不利な情報を得たり苦々しい批判を受けても平静さを装え、軍事事務処理に長けた能吏。たいして重要でない業務に多くの時間を費やすという欠点はあったが、精力的に仕事をこなす。
 『南部連合では一流レベルの政治的手腕の人材に不足していたが、地域社会一般における指導層はかなりの人品すぐれたレベルにあった。』(P107)
 「第四章 南部連合の外交」
 南部人民は戦争初期、綿花の重要性を過大に見ていた。英仏の繊維産業の原料綿花の四分の三以上が南部から出荷されたものだったから、そうした国が海上封鎖を解除してくれるものと信じていた。
 しかしイギリスの綿工場は南北戦争開始前に多くの在庫を抱えていて、敵対状態に入る前年の豊作だった綿花を売却していた。そのため『イギリスの綿工場は一八六二年の秋まで十分生産を継続できる原料を所蔵していた。』(P110)さらに戦争初期イギリスは小麦が凶作だったので合衆国北部の小麦の重要性が増していたことも、イギリスの南部への態度に大きな影響を与えた。
 結局欧州での南部連合の外交努力は実を結ばず、 『一八六三年七月初めのゲディスバーグとヴィックスバーグにおける南軍の二重の敗戦で実質的に諸外国列強の干渉の余地は消滅した。』(P131)
 1865年2月に南部連合の密使ダンカン・ケナーは奴隷解放を条件にヨーロッパの承認と援助をもとめたが、それは既に時機を逸していた。
 外交の主目的が達せられなかった理由。『主として重大なときの南軍の敗戦によるものと、戦争勃発地のヨーロッパにおける綿花の在庫過剰、さらには南部連合を支援して合衆国と交戦状態になる危険を背負うのを諸国が望まなかったことなどによるものであろう。』(P142)
 「第六章 将軍と戦略」
 『デイビス大統領の南部連合への寄与で最大のものは、まったく最初から優れた将校を自分で選んでいたことであった。一方リンカンは能力の高くない司令官を検証するのに多大の貴重な時間を費やした。』(P193)
 軍の効率的な組織化。『北部の軍組織には優れたものがあり、これが南部の敗因に大きなウェイトを占めた。南部連合の軍隊には、北部出身者が指揮官を務める軍需品供給部門を除き、全部門にわたり強力で効率的な組織化に向けた努力が見られなかった。』(P224)
 「第七章 南部連合兵站
 南軍の補給部とその将校のレベルが低いと不評。
 南部の鉄道は綿花を港まで輸送する目的で敷設されていた。そのため戦場に軍隊や物資を運ぶのに迂回路を取らなければならなかった。『そのうえ南部政府は全域にわたる鉄道に強い支配力を発揮できず、領土内線路を十分に活用できなかった。』(P256)
 「第九章 南北戦争における海軍力」
 南部連合の海軍戦力について書かれる。
 『南部海軍の歴史家スカーフは、南部連合水雷を「恐るべき実践的兵器」としての存在を示した最初の政府であり、また戦争の道具として最も価値ある貢献をしたのは水雷衝角船である、と記述した。』(P306)
 南部連合海上封鎖に苦しんでいたが、やられっぱなしではなく北部商船を襲撃して活躍した南部連合の戦艦アラバマ号やシェナンドア号などもいた。
 『最後に海軍の努力の評価がいかなるものであり、南部連合海上封鎖をかわす機会を最大限に活用する点で失態があったことは際立って明らかである。このため南部全体の経済環境が悪化したのは事実である。』(P325)
 「第一二章 南部連合経済の破綻」
 南部連合内のインフレ、諸物価の高騰など。そんなインフレの中で兵士の家族が食べていくのは困難であった。そして物資不足の中で色々な代用品が使われていた。