日本仏教史

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

 再読。
 「大乗仏典とその受容」
 大乗仏教の成立について。『原始経典が全体でまとまった体系をなしているのに対し、大乗経典はそれぞれ独立したグループの中で、必ずしも相互の関連がなく創作されているのである。例えば、般若経典なら般若経典を、『法華経』なら『法華経』を創作し、信奉するグループがあり、(中略)また、独立して行われていたほかの経典を取り込んだりして、複雑な構成をもつようになった。原始経典に比べて、大乗経典がわかりにくいのも、ひとつにはこうした理由による。』(P63-4)
 中国での仏教解釈。初期の挌義仏教は従来の中国思想の立場から仏教を解釈するもの。旧訳時代(鳩摩羅什の時代から玄奘以前まで)の教相判釈(教判)は、その時代に一挙に翻訳された多数の仏典の中の矛盾を、ブッダの生涯の時期による違いや説法方法の違いだとする考え。禅の興隆後は教学は衰退。
 『法華経』では「方便」という思想が導入され、小乗の教えも大乗の教えもブッダが聴衆の理解能力に応じて説かれたものとされる。『両者は一見すると異なる目標を目指すようであるが、最終的には一切衆生が同じように仏になることができるのであり、それこそこの『法華経』にいたってはじめて明らかにされた究極の真理であり、ブッダが世に出現した目的もこの真理を人々に説くことにあったというのである。』(P73-4)
 中国で教判思想が発展すると『上述のように、『法華経』はそれまでの小乗・大乗の教えを止揚することを目的としているから、教判の上からすれば、小乗・大乗の最終段階に来る最高の教えとして位置づけられる』(P76)ので、非常に重視されることになる。

 「第2章 密教と円教」鎌倉時代新仏教と比較して平安仏教は貴族の祈祷仏教というイメージがある。しかし『実践面の易行化の源流はすでに最澄の大乗戒の思想にみえるところであり、実際、鎌倉新仏教の祖師たちも多く最澄を尊敬し、最澄に範を求めている。』(P87)

 最澄独自の大乗戒の主張。晩年の最澄は大乗の戒を授ける戒壇を作ろうとしたが『じつはインド以来、このような主張はなされたことがなく、大乗であっても出家者は原始仏教以来の戒律を守るのが普通だった。たしかに『梵網経』の戒は大乗戒といえるが、その内容は非常に緩やかで在家者向きの性格が強い。』(P105)
 最澄が主張した『出家者も在家者も同一の戒による「真俗一貫」(四条式)の立場が(中略)やがて、世俗の中に積極的に入って行こうとする鎌倉新仏教の運動などにも連なっていくと思われる。しかし、同時に他面、出家者としての戒律・修行が軽視されるという問題点を日本仏教史に残すことにもなったのである。』(P106)良くも悪くも後世に大きな影響を与えた。

 密教の特色。『密教の絶対者大日如来は永遠の宇宙的実態であり、それまでの仏教の仏が究極的には空に帰するのと根本的に異なっている。瞑想の中で自我がこの宇宙的な大日如来と一体化することにより、自我も絶対性を獲得できるというのである。(中略)従来の仏教の無我・空のもつ現世否定性が消えて、密教においては顕著な現実肯定性が支配するようになっている。』(P109)
 空海『即身成仏義』から見る、空海密教。『大乗仏教では世界の本質を「空」ととらえるのに対し、ここでは物質および精神の具体的・現象的事実の世界がそのまま根源的原理と認められ、それが大日如来法身(本質的なあり方)とされるのである。いわば一種の汎神論(汎仏論?)ともいえよう。われわれの自我もその世界の一部であるから、その点からすれば、我々は修業するまでもなく、すでに本来的に仏そのものであるともいえるのであり、修業とは、それを自覚していく過程であるということができる。』(P113)『この理論は密教の理論であると同時に、もう一方では興味深いことにいわば日本人の宗教観を理論化したともいえる面を持っている。』(P115)

 天台宗密教化。台密を完成させた安然の理論では『すべてが唯一の大日に統摂されることになる。それは空海の体系にも匹敵するような壮大な規模を持った理論であるが、しかし、一歩誤るとなにもかも区別を失って一まとめに肯定される危険をはらんでいる。(中略)実際、この後の天台において発展した本覚思想とよばれる思想においては、こうした安然の思想を発展させ、現象世界の一切の事象を無差別的に肯定する方向へとすすんでいくのであり、それが古代から中世へかけての仏教思想史の最大といってもよい重大な問題を提起することになる。』(P122)密教と聞くと縁遠いようにも感じられるが、読んで行くと案外日本仏教は密教の流れが強いのだなと感じる。

 「本覚思想」
  院政期になって本覚は、誰にでも悟りを開いて仏となれる素質(仏性)があるという意味でなく、『現実に悟りを開いている、という意味に転化してしまうのである。すなわち、衆生のありのままの現実がそのまま悟りの現れであり、それとは別に求めるべき悟りはない、というのである。(中略)さらに、それは衆生の次元だけではなく、草木国土すべてが悟りを開いているとされる。これは「草木国土悉皆成仏」といわれて、中世の謡曲などで愛好される。』(P158)
 草木成仏論。『そもそもインドでは、同じ生命体でも六道に輪廻する衆生と植物とは截然と区別され、悟りを開く可能性は前者にのみ認められるものであった』(P169)。
 中国で草木成仏が説かれるようになるが、仏の絶対的立場で見ると世界は平等に真理で衆生と草木に区別ないというような観点から草木成仏が説かれる。
 しかし日本では『衆生との関係や空の絶対の立場を離れて一本一本の草や木がそれぞれそれ自体で完結し成仏としているというものである。ここでは仏の絶対の立場から見るという前提がきわめて弱くなり、平等の真理性といういわば抽象的な次元でなく、個別具体的なこの現象世界のいちいちの事物の有り方がそのまま悟りを実現しているという面が強くなる。』(P171)
 『あるがままの具体的な現象世界をそのまま悟りの世界として肯定する思想』(P173)である本覚思想は、日本人好みで中世の文学・美術・芸能、神道思想など広範囲に影響を及ぼす。
 しかし『まったく修業を必要とせずに、凡夫の状態のままで現象世界が全的に肯定されるようになったのが本覚思想である。』(P177)そのため『宗教としての堕落に陥りやすく、事実、その点から近世以降本覚思想は批判され』(P174)た。
 『近世の思想は中世の仏教などの宗教的世界観を否定して、人間中心的・現生主義的な世界観を確立する。しかし、本覚思想が現象世界を重視し、凡夫の日常性を重視するなかに、そのような近世思想への移行をスムーズに可能にする一因があったとみることもできる。神道理論の独立形成に際してと同様、ここでも本覚思想は仏教思想として行きつくところまでいって自己崩壊し、新しい思想を生み出す媒介となったということができよう。』(P190)

 「第4章 鎌倉仏教の諸相」
 『当時の仏教界の大勢としては、本覚思想に代表されるような現実肯定的な傾向が強まり、そこから戒律や修行を不要として堕落ともいえる様相を呈するようになった。それに対し、その状況を反省し、ふたたび実践性を取り戻し、宗教としての本来のあり方に立ち返ろうとしたのが鎌倉期の新仏教や南部改革派の運動であったと考えられる。』(P202)南部改革派・禅宗は戒律復興または禅の修行にはげむことで実践性を取り戻そうとする、宋の仏教の影響が大きいもの。一方で浄土教日蓮は、従来の仏教の実践が当時の日本の現実に合わないため新しい実践法を求める方向に進む。

 「第5章 近世仏教の思想」
 改革派の本覚思想的な傾向の批判が『実践面に現れると戒律復興の運動となるのである。このことは天台宗のみならず他の各宗にも見られ、これも近世仏教の一つの特徴ということができる。』(P261)
 江戸初期の禅僧鈴木正三による職分仏行説。『士農工商のそれぞれがその職分を果たすことは仏行に他ならない、という主張で、例えば、農民に対しては、(中略)天から授かった職業である農業に専心することこそ仏道を果たすことであると述べている。その底には、(中略)中世の本覚思想にきわめて近い現象則仏法の立場がうかがわれる。本覚思想のこの立場が倫理の歯止めを失って堕落に向かったのに対し、ここでは逆にそれを世俗倫理と結び付けることによって新しい時代に対応させようとしているのである。最も、同時にその立場は(中略)世俗権力優先の立場を内包していることを見落としてはなるまい。』(P264)