ハンザ「同盟」の歴史

 kindleで読了。
 ハンザ都市は多くあるが『本書では、その一つ一つに描きだすことは断念し、主にリューベク、ヴィスビ、ケルンを中心として叙述する。』(N439)

 ○ハンザは国際法上の同盟でもなく、ギルドでもないユニークな存在
 ハンザ同盟は都市連合勢力の一つでもあるが、都市同盟とは性質が非常に異なっていた。
 国際法上の概念である「同盟」では、成立するためには条約の締結が必要で、同盟が成立すればその内容に拘束される。しかし『ハンザ「同盟」にはこのような性質は欠けており、多数のハンザ都市が一度に同盟条約を締結したことはなかった。そもそも西はライン地方から東はバルト東南岸に及ぶ多数の都市の間に共通の政治目的はなかった。それにもかかわらずハンザという都市連合が成立した理由はただ一つ、非ハンザ世界での経済的利益を共同で獲得し、守り続けるためであった。(中略)「同盟」が当然の法理として発揮するはずの拘束力もハンザ「同盟」にはなかった。共通の方針に従ったのは国際法的義務によるものではなく、それが自らの利益に合致したからであった。』(N399)ハンザは拘束性に乏しく、果たすべき義務も曖昧な経済的動機から成立した組織。
 国際法上の同盟でもギルドでもないハンザ。『それでは何かといえば、歴史上ただ一回限りのユニークな存在であったと答えるほかない。(中略)ハンザ全体の軍備もなければ加盟諸都市に対する強制力もなかったことは後述のとおりである。しかし、だからといってハンザを情けない存在として見下げるのは見当違いである。以上のような性質にもかかわらず、世界史上最大の都市連合体として最も長期にわたって存続し得たというの事実の重みを評価すべきである。「同盟」ではなかったにもかかわらず、事実として北方の一大勢力であったことは、商人や都市の連帯意識がいかに強固であったかを物語っているからである。』(N424)

 ○商業復活と都市の台頭
 11、2世紀は商業復活期。
 『ローマ帝国崩壊後の混乱期にあって(中略)司教(教会)は唯一の現実的安定勢力であったから、司教支配下に置かれたのは、中世初の混乱期にあっては都市にとっての大きな恵みであったというべきである。しかし、やがて中世も安定期を迎え、商業復活を見るに至り、商人層を指導者とする市民の経済力と自覚の向上は、いつまでも司教の専制支配を甘受させてはいなかった。そこで西方では一一、一二世紀に司教支配に抗する市民の自治運動が展開され、前述したランの場合のごとく財力で自治を買い取ったと察せられるケースもあれば、史上に名高いケルンのごとく流血暴動をともなった事例もある。』(N650)そのように都市自治を成就する都市がでてきた。このような潮流が背景にあって都市の台頭、ハンザの発生があった。

 ○ハンザの中心となる都市リューベク
 12世紀に建設された都市リューベクは西方の東方に対する窓口であり、後にハンザの盟主となる。リューベクは元々異教の地であったことに加えて、リューベクの領主だったザクセン大公ハインリヒがリューベクに教会勢力が入り込まない政策をとっていたこともあって西方都市と違って聖界の力が弱い。
 リューベク建設でドイツ商人のバルト海進出が進む。しかし当時航海技術が未発達でロシアに行くのに中継地が必要だった。そのためヴァイキングによって早くから通商拠点として利用されていたスウェーデン沖合のゴートラント島の港町ヴィスビにドイツ商人たちは食い込む。リューベク、ヴィスビ、ロシアの通商路が確立してこの地域の重要性が増したこともあって、12世紀半ばのリューベク建設からバルト南岸地方に続々と新都市が誕生した。
 北方貿易は主に大量の必需品を扱い、投機性が乏しかった。『だから北方貿易では中小規模の資本力を備えた多数商人の結束という形態をとらざるをえない。北方貿易がハンザという商人連合を生み出しながら、南方のメディチ家に匹敵しうる巨大富豪を生み出さなかったのはこのためである。』(N343)
 リューベクは13世紀前半に帝国直属都市となる。『帝国に直属するとは言っても、皇帝自体は特に北方に対しては実権もなく、関心も乏しかったので、「帝国直属」とは完全なる自主独立に等しく、いわばリューベクは都市でありながら、君主と同等、つまり近代的な用語でいえば独立主権国家と等しくなったのである。』(N1159)

 ○ハンザ史の時代区分。商人ハンザと都市ハンザ
 今日ハンザ史の区分は12世紀頃から14世紀中頃までの商人ハンザ時代と、14世紀中頃からハンザが事実上歴史から姿を消す17世紀までの都市ハンザ時代という時代区分が定着している。
 『ハンザが強力な都市連合となったのは一四世紀後半から』(N712)で、商人が『外地で互いに結束したことがハンザのそもそもの精神的出発点となった。そうして、商人の故郷である都市は、このような商人の活動にひきずられ、これを補強するために事後的に連合勢力を築き上げたにすぎない。』(N725)

 ○都市ハンザ
 ハンザの起源であるヴェント都市同盟。『一二五九年のヴェント三市同盟締結会議以降この種の会議が時折開催され、参加都市も増大してゆき、これがハンザ総会へと発展したのである。』(N1375)
 第一次対デンマーク戦争でデンマークにヴィスピを占領される。この危機に1367年にデンマーク問題を討議するハンザ総会がケルンで開催されて、ケルン同盟が成立。雪辱戦でデンマークに勝利しシュトラールズント条約を結んだ。ケルン同盟は自然的連合のハンザ同盟とは違い正式な条約による同盟で『ケルン同盟の成立はまさしく都市ハンザ全盛期の開幕を告げたのである。』(N1480)

 ○ハンザの衰退
 15世紀頃の各国の商人が成長と近世的中央集権国家の確立を目指す努力が開始という二つの変化によってハンザは衰退していく。『従来、一五世紀におけるハンザ内部の不統一がハンザ衰退の原因と考えられる傾向があったが、それは妥当ではない。内部不統一はハンザに元来からあった性格で、十五世紀になると外部との関係でそれが表面化したにすぎないのである。』(N1677)
 一つ目の変化は各国の商人が成長したことで『一五世紀に入ると各国の商人層はハンザの独占を打破し、自らの手で物資を交流させることを目指すに至った。』(N2652)
 『もう一つの、しかもハンザにとって決定的に不利な変化は近世的国家権力実現の努力が開始されたことである。これに対してハンザはそれとは正反対の中世的組織、つまり国家ではなく商人層の共通利害によって結ばれた純経済的連合体に過ぎなかった。ハンザが存続できたのも、このような性格を超越する強大な相手が存在しなかったからである。しかるに一五世紀後半から徐々に姿を明らかにする国家は、従来の封建君主権とは性格が根本的に異なっていた。それは可能な限り国内の力を結集させて外部と対抗する意欲を有していた。ハンザはこれに反して、もともと国家権力の支援がない時代、ないところでそれに変わる機構として発生したものである。だから、中世末期に近づけば近づくほどハンザの存在意義は希薄化せざるを得なかった。』(N2652)
 『経済的利益共通意識のみでむすばれたハンザは、周辺に中央集権国家が存在していなかった中世においてのみ存続しうる体制であった。』(N3598)

 ○末期におけるハンザの努力
 ハンザ総会には『一六世紀以後多くの都市がもはや二度と出席しなくなった。』(N3554)
 末期のハンザは外部に保護者を求めたり、外部勢力との同盟なども模索したが結局実現しなかった。国際法上の同盟でないハンザ内で、正式に同盟を結ぶというのもリューベク、ハンブルクブレーメンの三都市同盟という極めて小さな形でしか実現できなかった。『以上のように、一六世紀のハンザが何を試みても挫折するだけであった。ハンザの維持に強い情熱を傾けてきたリューベクさえ、ついに嫌気に駆られるありさまであった。』(N3622)

 ○ハンザの終焉
 『ハンザに最期の止めを刺したのは三十年戦争である。』(N3689)『他面、三十年戦争は意外なほどハンザ貿易には影響を与えていない。(中略)このような貿易の盛行はハンザの滅亡が経済的理由によるというよりも政治的情勢によるものであったことを物語っている。事実、ハンザは衰えてもハンブルクダンツィヒ等はかえって興隆期を迎えているのであり、滅亡に向かったのは都市でも貿易でもなく、都市連合勢力としてのハンザそのものだったのである。』(N3709)ハンザは衰えたが、それと個々のハンザ都市の盛衰とは別。
 三十年戦争中の1629年に開催されたハンザ総会でリューベク、ハンブルクブレーメン三市に委任。『委任を受けた三市は翌一六三〇年強力な同盟条約を締結した。(中略)この三市間同盟は多少の中断はあったにせよ、更新を重ねて二〇世紀初期まで存続し、事実上、ハンザの縮小版としてそれに代わる存在となった。』(N3757)
 そして三市は全ハンザの代表として行動していたが『一六六九年のハンザ総会はついに最後のハンザ総会となった。』(N3797)最期と決まったわけではないが、以後開かれなかった。通常この年で中世ハンザ史の終わりとされる。