室町幕府将軍列伝

室町幕府将軍列伝

室町幕府将軍列伝

 この本は歴代将軍について書かれているほかに『将軍の兄弟のうち、将軍に就任する可能性のあった者、または将軍(室町幕府)を補佐する立場にあった者をコラムとして取り上げ』(P3)ている。

 ○太平記と幕府
 『近年、『太平記』は、その成立に室町幕府が大きく関与していたことが指摘され、いわば室町幕府の準正史、「室町幕府創世記」としての性格をもつことが明らかにされている。』(P11)南朝びいきという話を目にしたことがあったのでとても意外だった。
 「太平記」での尊氏に関する記述には『作者の情報収集力の限界という問題もあるものの、おおむね室町幕府創業者としての尊氏を美化しようとする姿勢が明らかであり、やはりこの書物の誕生の背景に、種々の政治的な力が働いていたことを十分に想像させる。』(P22)そのため若年から尊氏と行動を共にし、後に敵対した弟の足利直義が尊氏の事績のマイナス面を背負うことになった。
 ○足利義詮 結果的に執政する将軍となった二代将軍
 将軍権力の二元性。源頼朝以来将軍は御家人に対する私的・個別的な「主従的支配権」と、支配地に対する公的・領域的な統治権的支配権をあわせもつ。そして初期室町幕府では足利尊氏が主従的支配権を、弟の足利直義統治権的支配権を持っていた。
 2代将軍の足利義詮は「執政する将軍」だったが、『実のところ、「執政する将軍」は当時いまだ異例で自明のことではなかった。将軍の不執政は百年以上も慣習化しており、足利新政権の施政方針として建武三年(一三三六)に制定された『建武式目』でも、「近くは(北条)義時・泰時父子の行状を持って、近代の師匠となす」とうたわれたように、頼朝のような将軍独裁への回帰は想定されていなかった。』(P45)初期室町幕府は後期鎌倉幕府をモデルに制度を整えた。『つまり、不執政の伝統を約百年ぶりに打ち破った義詮の将軍親裁は、室町幕府にとって、当初の路線から逸脱する想定外の出来事であり、将軍の「中身」を大きく変える転換点となった。』(P45)当時から見れば、足利尊氏・直義兄弟の役割分担も特別変わったものではなかった。そして二代将軍足利義詮が執政する将軍となったことのほうが想定外のこと。
 義詮の親政について、今までは二元性の統合過程、将軍権力の確立を説く傾向があった。しかし実際は『義詮は「二元性」統合のために自発的に親裁権を拡大させたわけではなく、戦乱の激化で引付方が機能麻痺に陥ったことにともない、やむなく裁判の陣頭指揮をとらざるをえなくなったのだ。
 同様の事は、直義の管轄下にあったほかの機関にもあてはまる。』(P60-1)初期室町幕府機構の崩壊に緊急対応した結果として将軍が執政することになった。それが『結果として次の義満期につながる前提となり、室町時代の基本構造を準備することになったのである。』(P72)
 ○足利義満 室町幕府の権力確立のための朝廷・寺社復興、朝廷復興・寺社復興のための公家・寺社支配
 3代将軍足利義満儀礼をこなすのに必要な公家社会のしきたりや所作を関白二条良基から教えられた。二条良基は朝儀の復興に情熱を注いでおり、義満を朝廷に取り込むことで朝儀の復興を果たそうとした。
 従来の見方では、義満の公家社会参入は野心から朝廷を牛耳ろうとしたという風に見られる。しかし『義満の行動には、「公事には原則に基づき厳正に執行すべきである」という基準が一貫してうかがえるのだ。』(P92)真面目な公家であった足利義満
 義満の行動は朝儀を真面目に行うことで、北朝天皇家(後光厳流)と朝廷の権威を回復させることを狙ったもの。『「正平一統」を経て幕府が強引に擁立した後光厳天皇は、三種の神器践祚を認める上皇も不在という異例の状況下で即位した。南朝との対抗上、正当性に疑問符がつく天皇を支えるために、朝廷は通常以上に「朝廷らしく」あることが求められた。』(P93)そのため北朝を幕府が支えるという関係は変わっていない。『義満の特徴は、それまでの間接的な関与のあり方から、自ら公家社会に参入し、天皇家や朝廷に直接関与する方針へ転換したところにある。』(P95-6)
 寺社勢力の強訴は『その訴えがたとえ理不尽な内容で、また武力を伴ったとしても、これに反撃したり門前払いをするなど以ての外である、むしろ可能な限り「宥める」(受け入れる)のが中世社会の「常識」だった』(P81-2)。義満が政務を開始する前に、幕府を主導した細川頼之は強訴拒否したことで窮地に陥った。
 しかし義満の時代に強訴が止む。『しかも、それは一時的現象ではなく、数百年にわたって繰り返された神輿・神木の入洛自体がここで終止符を打ったのである。』(P97)
 義満は徹底的に強訴を禁じながら、寺社勢力の反発を受けなかった。そんなことが可能になった要因に3つの方針がある。1つ目は幕府と寺社との間の直接交渉ルートの確立。それまでは強訴は実質的には幕府への要求でも朝廷への要求という体でなされていたがそれを改めて、そのルートを通さなければ処罰の対象とした。2つ目は内部拠点の構築。幕府は有力な衆徒を補任して、その権利を保障することで寺社内の有力者を取り込んだ。3つ目は仏神事の復興。主要な神事・仏事が資金不足や内紛で満足にできなかったのを、再興を命じたり自ら参加することで興行を図った。
 『このように、義満の寺社勢力への対応についても、それまでの間接的関与から直接的関与への転換という特徴が見て取れる。その内実は、義満の寺社「支配」にほかならないが、それはあくまで手段である。(中略)<総体としての寺社復興>にその目的があった。これは、義満の公家社会参入が<総体としての朝廷復興>を目的としたことに通じるといえよう。』(P99)
 寺社・朝廷を復興させることで室町幕府の権力も確立した。それと同時に武家の棟梁と公家・寺社を支配する立場を兼ねる「室町殿」と呼ばれる政治的地位が成立し継承されていくことになる。
 『彼の行動が結果的に生み出した「室町殿」という権力のカタチは、機能不全に陥っていた朝廷と寺社を再編しつつ丸抱えしたものであり、その意味で義満は中世社会の枠組みを「延命」させた人物ともいえる。そこに皇位への「野心」なるものが入り込む余地はなく、むしろ安定した皇位継承こそ彼が求めていたものであった。』(P103)
 ○足利義尚 将軍のあり方を変化させることで権威を再建しようとした
 9代将軍足利義尚。彼が任右近衛大将拝賀という右近衛大将に就任したことを周知する儀式をしたときのことが書かれているが、当時の将軍家の金詰まりでその儀式をするのにも困っていたり、守護大名たちが言うことを聞かなくなっている様子がうかがえる。そのため先例通りの十分な儀式にすることはできなかった。
 室町幕府は守護が在京すること前提の政治体制だったが、応仁の乱を契機に守護たちは領国に下向した。応仁の乱まで守護たちが在京したのは『将軍権威によって在地への影響力を確保する必要があったからである。多くが鎌倉時代には東国に拠点を置いていた畿内近国の守護たちは、在地での実質的支配力が十分でな』(P254)かった。その必要性によって所領も軍事も突出していない足利将軍家武家の棟梁として君臨していた。しかし守護たちが所領支配を深化させていったことで、その権威の必要性が薄れる。そして応仁の乱後の足利義尚が任右近衛大将拝賀を行おうとした時代は、もはや将軍の儀礼守護大名たちが協力しない時代となっていた。
 『義満から義政までの将軍は、軍勢を率いることではなく、儀礼を繰り返すことによって将軍としての地位を確認し、守護大名たちもそれに協力することで体制が維持された。しかし、義尚が生きた現実はもはや将軍の儀礼守護大名たちが協力しない時代となっていた。儀礼を繰り返すことで武家の長たる地位が確認されるメカニズムは、もはや過去の産物となっていた。
 そこで、義尚が立ち返ろうとしたのが、実際に戦場に赴いていた時代の将軍、尊氏であった。室町期的な将軍像の破綻を目の当たりにした義尚が、南北朝期的な将軍像を復活させることで将軍権威を再建しようとした、それが近江出陣の本質だったのではないだろうか。』(P257)