死の舞踏 恐怖についての10章

 1981年刊の35年以上前の本で、その時点での近年30年ほどのさまざまな媒体(映画、小説、ラジオやテレビのドラマなど)でのホラー作品について主に語られている。この本ではさまざまなホラー作品が紹介されているので、その中でいずれ読みたい小説や見てみたい映画が色々と増えた。
 「第2章 <フック>の話」
 ホラーはホラーで定義や論理はない。『かろうじて定義もしくは論理といえるものがあるとしたら、ホラーを成立させる感情には大きく分けて三つのレベルがあるということだろうか。第一のレベルよりは第二レベル、第二レベルよりは第三レベルと、順に洗練度が失われて行く。』(P87)第一レベルから順に<戦慄(テラー)>、<恐怖(ホラー)>、<嫌悪(リヴァルジョン)>。戦慄は気味の悪いものが実際には目の前に現れない純粋に想像力を刺激するもの。その怖ろしいものの痕跡、一端を聞いたり見たりして、もしもう少し早くまたは遅く○○していたらどうなっていただろうと思わせるようなもの。恐怖の場合は、『ジョゼフ・ペイン・ブレナンのすばらしい中編「沼の怪(Slime)」で、悲鳴を挙げる犬に覆いかぶさるスライムのように不定形だが実体のあるもの、これが第二レベルの<恐怖>にあたる。』(P89)そして嫌悪はウゲッとなるもので、映画「エイリアン」のチェストバスターのシーンが例にあげられている。
 「第3章 タロットの話」この章では『モダン・ホラーというジャンルの大部分を築いた三つの小説』(P129)であるスティーヴンソン「ジキルとハイド」、ブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」、メアリー・シェリー「フランケンシュタイン」という古典3作品に関する話がなされていて面白い。
 その『三作品の中心にはそれぞれモンスターがいて(うずくまっていて、というべきか)、バートン・ハトレンいうところの”神話の溜池”――小説を読まない人や映画を見ない人さえも、みんな創作文学というその水を浴びた経験がある――に入って大きくすることになった。悪という魅力的な概念を象徴する完璧なタロット・カードのように、このモンスターたちはきれいに並べることができる。<吸血鬼>、<人狼>、そして<名前のないもの>だ。』(P133)
 "内なる悪"と"外なる悪"ホラーのふたつの分類。"内なる悪"は人の悪を為そうとする意識的な決断による行動の結果として生じる恐怖を描くもので、「ジキルとハイド」やポオの「告げ口心臓」が例としてあげられている。いっぽう"外なる悪"は人知の及ばぬ悪、外から襲い掛かる運命としての恐怖を描くもので、「吸血鬼ドラキュラ」やラヴクラフトの「異次元の色彩」が例にあげられている。しかし『"外なる悪"をテーマにするホラーのほうは、真剣に受け止めるのが難しい場合が多い。そういう作品は男の子の冒険物語の変形にしかならない傾向が強』(P155)い。『それでも、規模が大きくてすさまじいのは"外なる悪"の概念のほうだ。ラヴクラフトはそこを理解していた。彼の途方もなく巨大な悪の物語が強烈な印象を与えるのはそれゆえだ。(中略)『吸血鬼ドラキュラ』が驚くほどの成功をおさめたのは、"外なる悪"の概念を人間型にしたからではないかと思われる。』(P155-6)
 「第6章 現代アメリカのホラー映画――テキストとサブテキスト」
 著者があげた本能レベルの恐怖に訴えるホラー映画20本の大半が怪奇現象とは無縁。『逆説めいているかもしれないが、おとぎ話的ホラー映画をうまく動かすには大量のリアリティが必要だといえそうだ。リアリティがあって初めて想像力はよけいな重荷から解放され、不信のバーベルを持ち上げるのも楽になる。観客は、それなりの条件がそろえば実際にこう言うことが起こるかもしれないと感じることで、映画に引き込まれるのだ。』(P348)こういう状況になったら起こりえるかもしれないしれないというリアリティがあるからこそ強い恐怖を感じる。
 『ホラー映画の究極の真実――それは、ホラー映画は死を愛していないということだ。そう見えるものもある。だが、愛しているのはじつは生だ。ホラー映画は醜さを讃えているわけではない。醜さについて繰り返し語ることで健康と生命力を賛美する。呪われた者たちの苦悩を見せることで、日々の生活に潜む小さな(だが、けっして価値がないわけではない)喜びを再発見させる。いってみれば精神の瀉血をする床屋のヒルのようなもので、悪血のかわりに不安を取り除いてくれるのだ……とにもかくにも、しばらくのあいだは。』(P375)