アメリカン・サイコ


内容(「BOOK」データベースより)
マンハッタン。ウォール街で働くパトリックは、富と地位を約束されたエリート・ビジネスマン。しかしその生活は倦怠と狂気に満ちていた。どこのレストランに顔がきくか、高級ブランドにどれだけ通じているか、どんな名刺をつくったか―飽くことのない物欲、友人達との無意味な会話。そしてセックスの後には残虐な殺人が繰り返される。消費行動と物欲に彩られた醜悪な時代を描き、現代に巣食う病をえぐり取った問題作。

 佐藤亜紀さんのサイトの20世紀ベストのリストで、そこにあったこれがあったら当分現代文学いらない、というのを見て興味をそそられて、つい購入してしまったが、読む前から好みではないとわかっている小説(しかも上下巻)を読む気にはなかなかなれず少なくとも1年くらい積んだままになっていたが、ずっと積みっぱなしというのもなんとなく後ろめたい(しかも1ページも読んでいない状態で)ので、そろそろ読まなきゃと思い、一念発起して読了、とはいっても一気呵成に読み進めるのではなくて、普段持っていくバッグに入れてそれしか読めない状況を作ってちびちびと読み進めていっただけだけど(笑)。
 生きたまま部位を壊していくようなサディステッィクでグロテスクな殺人シーンが何回もでてくるのには非常に恐怖を感じる、前にも書いたが歯の一本だろうが小指だろうが身体の部位や機能が失われることへの怖れが個人的には非常に強いから尚更奴の行為がおぞましく感じるよ。あと、下巻の人を感電死させて黒焦げになった死体云々と言う場面を電車待ちの時間に読んでいるときに、ちょうどどこからか焦げたニオイがしてきて、気味が悪いような変な気分になった。
 サディスティックな殺人シーンだけでなく、全体として繰り返されていると感じるような似た場面(自室、仕事場、音楽について、有名なレストランやクラブ、ホームレスへの悪趣味なからかい、レンタルビデオショップとか)が多いし、話題もブランドやファッションについてといった同じようなもの(そして、流行の敏感さだったり、所有物の自慢などで相手より優位に立とうとする)の繰り返しだけどね。つまり、ベイトマンにとって、それらの繰り返されるほかの幾つかのものと同レベルの日常として、(サディステッィクな)殺人があるということだが。
 しかし、あるレストランで食事することが大きな魅力だったり、ある種のステータスのように感じられるような感覚は、いまいち実感することができないなあ。
 流行に敏感で、お互い優位に立とうとしている奴らなのに、やたらと人間違いの場面が出てくるのは、流行のシーンを追いかけている結果没個性になっているということか、それとも相手のことにはあまり関心がないからそうした間違いをしているのか、どちらと判ずることは難しいなあ。
 商品名やブランド名などの固有名詞がやたらめったらでてくるなあ、まあ、大概が僕にはわからんものだったからほとんど読み流してしまったけど、というかわかるようにいちいち注をつけていったらその注の分量が本文の量を超えるだろうレベルで出てくる。
 しっかし、ベイトマンとイヴリンの会話はかみ合わねえなあ。というか、ベイトマンはちょこちょこ殺人をほのめかしたり直接言ったりしているのに、誰も本気のこととして取り合わないなあ、それどころか話し相手がベイトマンの言葉を聞いているのかも怪しいシーンがいくつもある。上巻の最後の章「クリスマス・パーティー」で、とうとう頭が常軌を逸していることをイヴリンに気づかれ、当人も徐々に章が進むにつれて内面を抑えきらなくなってきて、普通の仲間内の行動でさえ(しかも他人に鈍感な、あるいは変人と多く触れ合っているから、スルースキルに長けているのか、あるいは育ちがいいから色々な人間とあわせるスキルが高いので、ベイトマンの態度がちょっと変わっている程度で収まって見えていたのか知らないが)異常さを隠しきれなくなってきている。それでもその後も、イヴリンとは付き合い続けられているのは謎だ、その後旅行に言ったりもしているし、しかしその旅行中『ほんとうに私は立ち直ろうとしていた』(P141)とベイトマンが地の文でいっているが、現在の状況が悪いことだという認識があったことに衝撃を受けた。なんというか、快楽として人を殺して、自分が悪い状態であるという意識がなかったり、居直っていたりというような人物だとばかり。まあ、ベイトマンは、殺人という趣味の悪いことをいい加減止めようと思っているだけであって、良心の呵責があったり、殺人というのが悪いことという意識はないのかもしれないがね。その後に、『しばらくして、私の陰惨な死の楽しみが白けて、こんなことをしていても慰めがないと泣けてきて、おいおい声を上げてなき、「愛されたいだけなんだ」といって(中略)その口から肉体を離れた声がする――「ひどい時代だよ」』(下巻P247)というような場面があるから、良心というより殺人でしか慰めを得られず、そのサディステッィクな殺人ですら十分な慰めを得られなくなった悲しさ、自己憐憫に陥って泣いているように感じられるから、恐らくそうだと思うが。というか、ベイトマンが別れを切り出した時、イヴリンが別れるのを嫌がっているのが、小説読者からしたら謎だ、それほど見た目がいいのか、小説に出てきていない中でなにか魅力があるのか、あるいはプライドから相手から言われるのが嫌だと憂いことか、うーむわからん。
 しかし、ベイトマンは話を切り上げて帰ろうとしたり、他に用事があると言うときはいつも、ビデオを返しに行かなくては(探すの面倒だからうろ覚えだが)、という様な台詞をしょっちゅうつかっているのは、普段はブランドや流行、又は相手の優位に立つことを気にしているような人間なのに余り格好のつかない台詞を何度もつかっているのは何故だろうか。
 ジーンと食事に行くとき、予約が取れなかったから、予約の記録簿を見て他人を騙っている場面は、こういう自分を詐称するシーンは読んでいていつバレるのだろうとどきどきして心臓に悪いし、見ていて苦しい。殺人者が自業自得で困っているのだから、嘲笑してしかるべきなのだろうが、こうしたシーンでは何故だか奴が哀れな人間のように思えて読んでいて苦しくなってしまう。
 創作和食と言うか、日本の食材を使った前衛的な料理が出てくるようなシーンが何回か出てきて、なんだこれは(いや、実際はそれほど多くないと思うけど、層感じるのは、たぶん他に、スシとかトーフとかが登場して来たシーンがあるから多く感じるだけかもしれないな)。
 オーエンを殺した後、探偵が尋ねてきて疑われていると思ったが、ロンドンに似た人物を見たと言うことで、探偵はそちらに言ってしまい、更に後にはロンドンで会った(それどころか二度一緒に食事を取った〈!〉)という人物まで出てくるとなるとどこまでが現実かよくわからなくなってくるな。しっかし警察に追いかけられて銃撃戦をやったり、手配ポスター(それは連続殺人でなく、一件の殺人についてのようだが)が貼られているようなのに、結局最後まで捕まらないというのは異様に悪運強いなあ。手配ポスターでタクシー運転手に気づかれて、財布やら時計やらを強盗されることはあったが。