写楽 閉じた国の幻 下

写楽 閉じた国の幻〈下〉 (新潮文庫)

写楽 閉じた国の幻〈下〉 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

謎の浮世絵師・写楽の正体を追う佐藤貞三は、ある仮説にたどり着く。それは「写楽探し」の常識を根底から覆すものだった…。田沼意次の開放政策と喜多川歌麿の激怒。オランダ人の墓石。東洲斎写楽という号の意味。すべての欠片が揃うとき、世界を、歴史を騙した「天才画家」の真実が白日の下に晒される―。推理と論理によって現実を超克した、空前絶後の小説。写楽、証明終了。

 読みやすくてあっという間に読めてしまった。しかしオランダ人説という突飛な説をとっているが、他の説では説明できない謎がこの説を採ると理屈付けられるし、時期的にも江戸参府が普段よりも時期的に遅れたためギリギリ可能性としてはありえる時期にオランダ商館の面々が滞在していて、その絶妙なタイミングの良さを見るとありえないとはいえなくなってしまう。
 「江戸編?」
 読んでいる最中は春朗が誰だかわからなかったが、蔦屋に歌麿級の才能云々といわれているのを見て、無名の彼が写楽という筋立てになるのかと思ったが解説を読んだら彼は後の北斎であったか。
 控え櫓三座、本櫓が上演できないときに替わりにやるということだが、年にどれくらい上演できる保障がだろうによく持つなあ。
 「現代編?」
 大正時代ごろの神田は中国人留学生が何千人も滞在していた中国人留学生の町だったとは驚きだ。このくらいの時代に中国から留学生がそんなにも多く来ていたとは知らなかった。
 浮世絵の残存数は世界に10点も残っていればいいほうで、有名な歌麿の絵でも現存するのはたいてい10点以下、そんな中で写楽の大首絵(第一期)は一作品平均12・5枚で20点以上あるものも複数ある。ただし2期、3期、4期と期が下るごとに作品の残存枚数は減っていく(?大判6・1細判2・6。?2・??1・?)。そして写楽の絵も1期と2期以降には大きな違いがあり、2期以降は歌舞伎を良く知っているように見える。1期がうけたのは役者の個性を描いたからで、それ以後はそうした面が出なくなっているということも、残存数の方に関係があるのだろう。
 しかし1期と2期以降で作者は違うという前提からしてかなり刺激的な論だなあ。そして蔦屋工房説、多数の作者による共作。それにしてもまた、なぜ一期が受けたのにそれ以降その作者に描かせなかったという謎がある。しかし耳鼻の描き方などの極端な形式性から歌麿を絡めてくるとはまたまた大きな話になっていくなあ。
 そして歌麿が絵に蔦屋への怒りをあらわにしている文章や十返舎一九写楽について言及した言葉などを見て、また写楽の正体を誰も明かしていないのはオランダ人だからともってくるのは驚いた。突飛な説だとは思うけど、この本で挙げられている写楽の幾つかの謎はこの説を採れば解けるし、それなりに説得力があるようにみえる。他の解決が出来ないのであれば、最後に残った説がいくら突飛でもそれが正解だというホームズの言(その言葉を知ったのは、米沢穂信の氷菓シリーズだが)のような、ミステリー的な説だとも思えなくもないが、だけどいくつもあるうちの一つの説という程度のもっともらしさはあるように見える。
 話を読み進めるごとに片桐教授は何をたくらんでいるようで、佐藤を導い(操っ)ているようだが、何を思っているのかよくわからなくなくて困惑する。しかも結局なんか誤魔化されて明かされていない感があるのでちょっと消化不良気味。「後書き」に裏面のストーリーは一行も書けなかったと書いてあるが、裏面がどういうものかは知らないがそれが書かれていたら彼女の行動に納得できたのかもなあ。
 オランダ商館の江戸参府の年や滞在期間など、オランダ人説の前提として必要だった事実が、オランダ商館長の日記を調べてくれた片桐教授のつづけざまにくる報告で、その前提が正しいことがわかっていき、佐藤さんや編集者常世田、居合わせた辻田教授などが非常に興奮しているが、ちょっとした着想に過ぎなかった考えがその強度がどんどん増していき新しい説となっているのは読んでいてもワクワクしてくるし、彼らが非常に高揚しているのをみてこちらもニコニコと思わず顔が緩んでしまう。それに佐藤は子供の死とそれに付随してきた妻とのあれこれや、ネガキャンなど、色々立て続けに怒っていたので、彼が嬉しがっているのを見るとああ、良かったなあと少しほっとする。
 しかし当時の江戸の暦での日にちをグレゴリオ暦に変換するサイトを登場させていて、佐藤たちにすぐにその計算の手間を取らせずに実際のところをわからせるにはちょうどいいのだが急にウェブサイトが出てきてちょっと虚をつかれたが、それは実際に作者自身がそのサイトを使用した経験からこのシーンが生まれたのか。
 当時のオランダ商館にいた医者は大学教育を受けた医師でなく、少し地位の低い外科医だった。そういう理由もあって江戸の蘭医は外科だったのかとちょっと思ったけど、シーボルトが来るまで直接教えを請う機会はほとんどないだろうから、それが影響しているというのは思い違いだろうな。
 「江戸編?」
 蔦屋たちのような教養のある人が、紅毛人も人間だという当然の事実に驚いているのはちょっと違和感があるなあ。当時西洋人との付き合いが0に近いのだから、妙な観念が巷間にあり、ある種の妖怪じみた存在として認識されているのかねえ。
 オランダ人ラスの見た、夜の歌舞伎小屋の場内の無数の提灯の明かりと場内の雰囲気に驚いているのは読んでいてニヤリと微笑みたくなる。しかしラスは言葉が片言だから、いまいち互いの意思疎通がつたないやり取りになっているのと、本来行けない場所にいっているという高揚もあるのか妙にラスの所業が子供っぽく見えるから、なんだかむず痒くなる。
 しかし歌麿、本当に泣きそうになりながらも蔦屋の頼みだから泣く泣く引き受けているのが哀れだ、心底同情するよ。
 春朗が『鳥獣戯画なんてものもありましたっけ、昔はね』(P337)といっているけど、江戸時代に鳥獣戯画は知られていたのか、とちょっと気になった。その絵を版木に写して本にした奇特な人でもいたのかなあ、いまいちありえそうにないが、というか過去の絵をしき写して出版するなんて事が江戸ではあったのかしらんとそんなことが気になってしまった。
 ラスが江戸編で芝居を見ているのを読んでみると、実際そのように芝居を見ることのリスキーさを考えたらありえそうもないし、わざわざオランダ商館員のラスがそんなリスクを犯すようなことするかなと思い、オランダ人説もなかなか厳しそうと思った。しかしオランダがあまり好きではないオランダとバタヴィアのハーフということが書かれたでそれなら彼の好奇心の旺盛さもあいまって、少なくとも性格と出身がそうであるならばそういうリスクをとるかもなと再び自分の中のオランダ人説の信憑性が少し回復。
 商館長とラスの会話はいいねえ、ラスが母国語でふつうに話しているのを見てホッとする片言の日本語で話すだけでなくてよかった。彼が商館長相手に飄々と受け答えしている様を見て、彼のことがより好きに。
 しかし護衛・監視の侍や見物人がいるところでラスと蔦屋がいろいろと話をしていたり贈答をしているのを付いている士が黙ってみているのも変だと思うから、違和感を禁じえないなあ。それは物語としての都合だろうなというのは分かるけど、どうしても気になってしまうなあ。
 「後書き」作者自身、オランダ人説を考えて写楽の本の執筆を決めてから、実際にオランダ商館が江戸参府する年と日にちがばっちしあっていたのに気づいたのか。その場面での佐藤らの興奮は作者自身の体験した(しかも割りと直近に)興奮でもあったのか。