喧嘩両成敗の誕生

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

内容(「BOOK」データベースより)

中世、日本人はキレやすかった!大名から庶民まで刃傷沙汰は日常茶飯、人命は鴻毛のごとく軽かった。双方の言い分を足して二で割る「折中の法」、殺人者の身代わりに「死の代理人」を差しだす「解死人の制」、そして喧嘩両成敗法。荒ぶる中世が究極のトラブル解決法を生みだすまでのドラマ。


 ノンフィクション作家高野秀行さんのブログでこの本が紹介され、絶賛されまた『著者は、『龍馬史』の磯田道史氏と同じように、頭が切れ柔軟な思考をもち文章も達者な若手研究者だ。』とか『清水さんの著作は(中略)どれも読みやすく、面白く書かれているので/歴史が苦手、とくに室町のごちゃごちゃした感じが苦手の人にもお勧めです』と書かれていたのを見て、それくらい読みやすいのならと早速購入し読了。
 原文が長々と引用されることがなく、引用された文章にはほとんどに現代語訳や説明が付いているため非常に読みやすい。
 興味深く印象深いエピソードが多数掲載されていて面白い。
 この本では室町時代の強い名誉意識とそれによってすぐに大事になったり、復讐が相次ぐ喧嘩の実例だったり、当時はどのようにしてそうした喧嘩を落着させたかについて書かれている。
 今川かな目録で喧嘩両成敗「法」が規定され、それが他の分国法にも同様の趣旨が書かれることが多くなる。しかしそれ以前からむき出しの暴力での争いを喧嘩両成敗で解決するということがよく行われていたように、喧嘩両成敗は当時の人々にとって納得のいきやすい解決方法だった。むしろ喧嘩両成敗法は喧嘩を抑止することとトラブルがあった場合には大名の裁判権の下に服させる点にあった。後者は「理非を論ぜず」両方処罰するが片方が自分は我慢して武力を用いずに大名にその事案について持ち込んだら相手方を処罰するというものだから、もし争いが起こっても喧嘩をせずに自分のところに持ち込んだほうが得だと思わせて大名による支配を推し進めることができるという理屈。
 北野社僧(神社に使える僧侶)が金閣寺に観光に訪れたら、金閣寺の僧が自分の寺の門前で小便していたのを牛にひっかけてからかったら、からかわれた僧が度を越した悪口を吐いて、乱闘になり、両者に死人怪我人が出た。そしてそれだけではおさまらない金閣寺側が北の社に攻撃を加えようとしたが室町殿が慰留したことでなんとか武力衝突を避けられたということだが、少しの悪口が殺人に発展して、更に相手の所属集団に対して闘争を仕掛けようという事態に容易く発展したというのはちょっと驚くね。
 室町時代においては、武家や寺社だけでなく、公家(「この時代、公家の配下にある侍といえども、その気性や腕力は武家の被官たちとなんら変わらず、ときには武家のそれを上回ることがあった」(P70-1))も、諸身分集団も『直接の武力や職能に基づく呪術的な力をもとに自らを防衛していた。彼らの属した集団は、ひとたび個々の構成員の身に危害が及んだとき、その危害を自らが受けたものと同等のものと考え、構成員を支援したり、ときには報復に乗り出すことも惜しまなかった』(P68)そのため、端の方の構成員がトラブルを起こして殺傷したというときに、両方の関係者が助けを求めて大きな武士の集団があわや一触即発といった状況になることもあった。
 この事例は決して特異な事例ではなく「笑う――笑われる」という些細な問題によって殺人沙汰、互いに所属する集団による闘争に発展することが多かった。それほど室町時代の人々は侍身分に限らず(僧侶やただの田舎人であっても)、現代人では想像が付かないほどの強烈な「名誉意識」を持っていた。そして特に室町時代の人にとっては、稚児や遊女といった身分の低い相手から笑われることはどうしても許せないことだった。
 所用があって下馬した人(於保)が、たまたま通りがかった人(溝口)が下馬の礼してきたことを怒り、無礼を糾弾した。これは先に所用で下馬した於保の身分の方が高く、通りがかった溝口の方が軽輩だったので、まるで自分が目下の人間に対して下馬の礼をとり、あたかも自分の方が身分が低いように見える奇妙な状況になったことで名誉を傷つけられたと感じて、溝口に「野心でもがあるのか」などなじった。於保が妙なタイミングで下馬をしたので、下馬をしないと無礼だからとりあえず降りたのに、そうした難癖を付けられたが相手の方が身分が上だから、そう文句をつけるわけにもいかず溝口は敬語でひたすら弁解してなだめようとしたが、於保の怒りは収まらずついに刀を抜き、それに対して仕方なく抜刀した結果、結局両者ともに死亡するという結果になった。これは流石に当時でも珍しい話のようだが、こうやって実際にこうやって話を目にするまでそんなことをどんなに想像力を巡らせてもそんなことを創作するのが難しいほどの突飛さだ。こうしたものもまた現実は小説より奇なりというのかね。正直わけわからない挿話だが、現代ではありえないものなので読んでいて面白いな。
 細川勝元は十五歳のときと十七歳のときに危うく殺されかけた。十五歳のときは普段の遊び相手の香西が前田(十五)と碁を打っているときに、香西に助言を与えたことに前だが怒り怨言を吐いた、それで前田を御殿から追い立てたが、それでも前田は気がおさまらず、刀を持って御殿にとってかえし、勝元に二度まで切りつけた。しかし勝元は兵法を学んでいたため、それらを避けて逆に相手の剣を奪って相手の動きを封じた。十七歳のときは、塩飽某という細川家の家臣が細川勝元に寵愛されていた同僚で勝元と同性愛関係にあった内藤四郎左衛門を、勝元と内藤が同じ蚊帳にいるときに襲い掛かり、内藤と近くにはべっていた遁世者を殺したが、その事件の原因はわざわざ寝所で主人の「愛人」を殺していることから勝元をめぐる男同士の痴情のもつれだったようだ。しかし主人の寵愛が他の者に注がれているのを嫉妬して、主人に危害を加えようとしたりするというのは、武士のイメージというのは江戸時代の印象が強いから、初めから主人に反逆真を持っていたわけでもないのにこうした事情で、また自分の身一つで、主人に危害を与えるような行為へと容易くするというのはかなり驚きだ。
 勝元はゲームの助言で危うく殺されかかっているが、これは幼いもの同士だから怒ったということでもなく、『このように些細なゲームの勝敗をめぐっても、あやうく「主殺し」にまで発展しかねないのが、この時代の特徴』(P27)のようだ。
 室町時代の名誉意識と江戸時代との違いは、侍だけでなく僧侶や一般庶民にも名誉意識が共有されていたということとそれが主人への反逆にも容易く結びつくものであったということ。こうした室町時代の人の名誉意識を見ると、江戸時代に朱子学を積極的に導入したのはむべなるかな。
 室町時代の室町殿(足利将軍)や大名が発狂するという事例が多いらしいが、それらは室町時代は大名当主と被官との間の関係は流動的だったため、精神のバランスを崩すものが多かったのではという説明はなるほど。当時はそういった環境なんだから、当時の人々はそうした状況で慣れていたのかと思っていたが、そうしたストレスの溜まる状況には人間慣れないものだということか。それを知ってなんだかホッとした。
 室町時代や戦国時代においては、大名であっても被官に憎悪や激昂をあらわにすると、逆に殺されかねないため、被官を殺す際にはそうした感情を一片も見せずに速やかに殺したというのは穏やかじゃないなあ。しかしそうしたところの根源には非常に強い名誉意識と、それを傷つけられたら誰であろうが(主人であろうが)、手向かうことをためらわない、他の一切のものよりも名誉が大事という認識があったのか。
 親敵討や女敵討(親の敵、または妻と密通した間男を討つこと)は制定法の上では禁止されていたが、実際中世の社会通念の上では広く認められていたものだった。戦国大名がそれらを条件つきで公認したのは、そうした現在の実情とあわせるためで、それ以前はそうした敵討ちがなかったり、あるいはあっても悪いことという認識だったということでは全然ない。
 室町時代当時は切腹することは公権力や周囲の人々かも理非を超えて言っての配慮を得られる起死回生の一手だった。当時は死者の霊力が信じられ、また敵対者へも同等の損害を与えるべきという認識を共有していたため家、所領、誇りのために彼らは自害することを厭わなかった。江戸時代でも米沢藩では差腹という習俗があり、自らの切腹に使った刀を遺恨のあるものに送りつけ、ひとたびその刀を受け取ったものは異議なくその刀で自らも切腹しなければならなかった、それはたしかに「恐るべき習慣」ではあるが、それは中世の自害の延長線上のもの。
 どんな凶行に及んだものでも自らの屋形に逃げ込んできて、「憑(たの)む」と言われればあっさりと受け入れ、どんな相手でもその者を引き渡さなかった。例えば公家で、天皇の勅定があっても、既に当家を立ち去ったと欺いてまで匿いとおした。そしてこれは当時頼む/憑むということは、相手の支配下に属することを意味していて、頼まれた以上は譬え初対面であっても主人として相手を「扶持」(保護)する義務が生じたと当時の人は考えていた。そのため、誰しもが憑まれた以上それを無視することは望ましくないという観念を共有していた。
 当時はイエのなかでの主人の支配権が非常に強く、生殺与奪権を持っていたため、逆に何も知らずに他人の家に宿泊したら、家の主人から下人と見なされて、危うく身柄を拘束されそうになったというようなトラブルも実際に起きたようだ。なので館に駆け込んで守ってもらった人はおそらく『その後も長く主人との主従関係に近侍した関係を持つことが要請されたと考えられる。』(P59)
 室町時代に旅館で団体予約がしてあるから断られたがたまたまこの日にその客が到着しなかったので殺人沙汰になってしまったという事例があるが、この本の本題とは関係ないことだけど、既にこの時代から旅館の予約なんてことができたんだとなんだか感心してしまった。そうしたものはあっても江戸時代からだと思っていたよ。閑話休題
 古市氏と宝来氏という国人の被官同士に些細な喧嘩があったが、その場で仲裁があり両者引き分けでおさまった、……ように見えたが、後日古市氏の被官の側だけ疵を被っていた事実が判明して、古市氏の被官たちの怒りが再燃し、喧嘩を下宝来氏の被官当人でなく彼の70歳になる父親を殺害した(!)。そして宝来氏の被官も、怪我をさせただけなのに父親を殺されたわけだから当然怒り、無関係の奈良の町人で古市被官である者が殺された。こういった復讐のために原因となった喧嘩とは全く関係のない人物が殺されたりするというのは想像を絶する。後者の町人を殺したほうは、あまり縁深くない人を殺すことでこれ以上争いが広がらないようにした配慮なのかもしれないとは思うが、それでも殺されるが分からしたらたまらないよ。
 室町時代没落した大名が京都から去るときには宿所を焼いたが、その焼け跡では「諸人」が残った資材を略奪していたし、法華一揆山科本願寺が攻め落とされたときも数日にわたって無関係の「諸人」が集まってきて略奪品をあさっていた。そうした没落大名屋形からの略奪は当の大名たちによっても広く認められ、ときには利用され、ていた慣習だった。
 ニュージーランドやフィジーにあった慣習である「Muru」ではタブーを犯したものはその刑罰としてその犯人の財産を何でも奪うことが許され、中世ヨーロッパにあった「アハト刑」を宣告されたものは誰でもその人を殺害しても構わなかった。そういった刑を受けたら「法外人」となる。法外人とは「法」の保護が剥奪され、私的暴力を認可された人のことで、こうした刑は彼に対する私的暴力を認可することで刑罰を実現させるものだった。そして室町時代においては、室町殿に叛き京都から没落した者などは法による保護の埒外におかれた。『中世では盗みはなによりも重罪と考えられており、それを忌避する意識は極めて強かった』が、法外人に対するものだから京都の民衆たちはそうした略奪にいそしんだ。また室町時代流罪となった人は途中で殺されてしまうケース、というか殺してしまうケースが多く、またその犯人が追及されていないが、それはこうした法外人となっていることでその『流人が誰に殺されようと、もはや誰も責任は負う必要はない』(P100)からだ。
 中世では当知行みたいに、実際に一定の年月その土地を使用していれば、無理やり実力で占領したとしても認められるというような当知行の論理があった一方で、中世社会には証文絶対主義と言う証文を所持する者が、たとえ宛名が所持人とは全くの別人であっても、権利があるという「道理」もあり、どちらを優先すると云う決まった考えがなかったため、その2つの道理を当事者たちは自分たちの都合のいいように主張していたし、そのことで裁定する上位者も悩んでいた。
 足利義教は自身が籤引きで選ばれたということもあり、紛争処理に籤引きや湯起請などの神判を多用したがる悪癖があったとは知らなかった。籤引きで選ばれたことを気にして、強権的な振る舞いをしたという説明を読んだことがあったからその経緯にコンプレックスを感じていたのかと思っていたが、その悪癖を見る限りコンプレックスになっていたというわけではないのかな。
 中世では『人々は、争いになる以上、いずれの側にもなんらかの正しさがあり、また同時に、なんらかの落ち度があるにちがいないという認識を共有して』(P129)いたため、双方の主張の間をとる「折中の儀」を最善策と考えた。そして中世ヨーロッパでも同様のことが言えるというのは驚き!日本では現代でもそのような考え方が多分に残っている一方で、ヨーロッパでは真実を追究して白黒つけるが、その違いはどこから生まれたのかちょっと気になりヨーロッパのそうした考え方の変遷についても知りたくなってきた。
 解死人制は、謝罪のため加害者者側の集団から謝罪の意を表す人間を差し出し、引き渡された側は『その解死人を処刑することはせず、げんそくてきにはその解死人の顔を「見る」ことで名誉心を満たしそのまま解放されるべきものとされていた。』(P134)無論そうしたマナーを逸脱して殺してしまうこともあったようだが。
 以前惣村同士の争いか何かについての話で、何か揉め事があったとき犯人でなくても集団の中から一人出し、その人は主に村にいる最下層の人とか流れついた人で子孫をその村の正員とする代わりに死にに行ったとあったのを読んだことを思い出したが、あれに書かれた時代ってアレって戦国の頃だったっけその頃にはまた変わっていたのか、はたまた室町殿のように間に入ってくれる人がいなかったからなのか。
 室町時代には双方の正当性が拮抗し、いずれの主張も甲乙付けがたい場合に喧嘩両成敗、中分的解決がなされていたが、15世紀後半から戦国時代に、人々は喧嘩両成敗的解決に傾斜し始め、そうした解決に頼る範囲が広がっていった。
 応永31年(1424年)に赤松氏の四男が酔いつぶれた将軍の近習安藤某を殺害する事件が発生した。そして同輩の将軍奉公衆は報復のために赤松邸に押し寄せようとしたが、室町殿が押し止め、赤松家にその四男の切腹を命じた。しかし当の本人は事件直後に失踪してしまい切腹させようにもできない状況であった。そこで赤松家は納得のできない将軍奉公衆の激しい抗議のため、裏壁(浦上)という被官を代官として切腹させることになった。裏壁家では出家した親が切腹するか、それとも10代の息子が切腹するか互いに庇いあって自分がするといって揉めて、結局息子が切腹することになり、父を庇って死地に赴く哀れさに「諸人、哀涙に泣く」といわれた、というこのエピソードは印象的で好きだな。
 備中細川家と能登畠山家の被官同士のトラブルで、備中細川家の被官が殺されたので、細川家は解死人制での解決を望んでいたが、幕府は平和的措置として「本人切腹」させたというのは、被害にあった側としては(原則死人が出ない)解死人制のほうが本人切腹よりもいいと考えているのが甚だ意外だ。これもやはり名誉の問題なのだろうなあ解死人を立てさせて許してやる方が、本人に切腹をされるよりも名誉回復するのかな。
 両成敗による解決では裁判すること自体がそもそも無意味になってしまうため、江戸幕府はそうした法令を初期に軍令として出しただけで、平時にその法理の採用はしていない。現実に両成敗の適用は判例としてはわずかに見られるが、平時にその法理について制定はしておらず、江戸中期になるとそうした判例はほとんど確認できなくなる。喧嘩両成敗法は家臣や民衆の支持を得やすい方策として採用したもので、戦国大名が制定した喧嘩両成敗法はむしろその権力の弱さを象徴するものというのは驚いた。
 「あとがき」で『私自身、研究者を志す以前も、志した囲碁も、幸か不幸か、「室町時代」を部隊にした小説やドラマで心底「面白い」と感じるものにまだであった経験がない』(P223)そこらへんの小説で面白そうなものがないなと感じていたが、歴史学者の人であっても面白いと感じるようなものがないくらい不作な歴史年代なのか、なんだかそれを見て言い方はアレなんだけど本当は面白いものがあるが出会えていないと云うことではなくてなんだかホッとした。あるのならぜひ読みたいと思っていたが、どれを読めばいいのか分からなかったから、こうやって言われれば、まあ「ない」なと思うから、あまりそのくらいの時代の歴史小説を読もうとする気持ちが薄らいだ。それがいいか悪いかは別として(笑)。