迷える者の禅修行 ドイツ人住職が見た日本仏教

迷える者の禅修行―ドイツ人住職が見た日本仏教 (新潮新書)

迷える者の禅修行―ドイツ人住職が見た日本仏教 (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)

「お坊さんになって悟りたい!」―。悩めるドイツ人青年の危機を救ったのは、祖国で出会った坐禅だった。出家の覚悟を決めて来日するも、そこで見たものは、この国の仏教のトホホな姿。算盤を弾くばかりの住職、軍隊のような禅堂、仏教に無関心な世間…。失望と流転の末、ようやく辿り着いた理想の修行は、小さな山寺での自給自足・坐禅三昧の生活だった。日本人が忘れた「一瞬を生きる意味」を問う、修行奮闘記。


 著者がかつて修行していて、いったんそこから離れたが現在はその場所で住職をしている安泰寺という寺院は、人里はなれたところにあり、ある意味理想的な日常から隔離して修行することができる場所にも見えるが、その実情としては自分たちで全てをやるという理念から金勘定や日常の雑務などもあり、座禅に限らず日常の全てのことが仏教修行だというのだけれど、反面では寺院内の俗っぽさを許容することにもなっている。なので、現代の日本では純粋に仏教修行とか自分の心の安らぎのための、俗世から遠く離れた清らかな異界のような寺院で静かに清らかにひたすら座禅などの仏教修行を行える場所というものはどこにもなさそうなのはがっかりしてしまう。まあ、著者が安泰寺で学んだように、形式的に清らかで清廉な修行や場所が重要なのではなく、自分がどう修行の場から、日常で気づきを得るか、座禅の時間や畏友時間に限らず日常の全てが「自分の時間」であると自覚しているのかが重要なのだろう、つまり頭と身体が別個でないように、自分の時間だったり修行の時間を特別に設けるのではなく日常の全ての時間が修行の時間であり、自分の時間であると自覚するということが大事ということだ。少なくとも日本のような清らかな「場」を見つけるのが難しい場所においては。
 現代日本の僧侶が清廉じゃないということは知っていたものの、一見俗世から遠いように見える安泰寺の人々でさえ平然と酒をたしなみ、妻帯もするというのが、いかに日本で清廉な僧侶が少ないか、また日本で僧侶が精錬であることが難しいかについてをあらわしているように見える。
 禅との出会いは高校時代の座禅サークルでのことだったようで、著者は禅をして姿勢が変われば私の世界も、私自身も変わる、つまり身体が自分に影響を及ぼしていること、体が頭の「道具」でなく、身体=私だという実感を得た。
 著者が高校時代(80年代半ば)のヨーロッパではすでに禅仏教が普及していて、関連書籍をあさるのにはさほど苦労しなくても良い状況にあった。しかし禅は仏教でのみ有効なものではなく、宗教の境界を越えた普遍的な知恵だとして、禅をキリスト教にも取り入れようとしたグループがあり(著者がいた高校の禅サークルを主催していた先生もそうした人だったようだ)、かつてキリスト教でも禅に似た神秘主義があったが異端視され弾圧されて廃れたように、現在でもそうしたキリスト教に禅を取り入れようとするグループにもキリスト教会からは批判の声が上がっているようだ。著者がいたのはカトリックスクールだったこともあり、禅サークルを主催していた先生は、そういった事情もあり寮の指導員をやめなければならなかったようだ。
 ドイツの大学では必ず日本で言う修士号取得まで卒業できないということで、30前後まで学生でいることが珍しくないのはちょっと羨ましい。まあ、日本のようにモラトリアム全開というようでもないようだから純粋にすごくうらやましいとはならないけれども。
 しかし安泰寺に、いったん大学を休学してから日本に来て入ったときに、そこに堂頭(住職)に「安泰寺はお前が創るんだ」つまり安泰寺という既製品はなく、ここにあるのはお前が創る安泰寺しかないという言葉を堂頭(住職)からいわれて著者はかなり驚いたようだ。
 そうやって一旦安泰寺で半年ばかり滞在した後、ドイツに戻り大学を卒業して再度日本へとやってきて、再び安泰寺へと入り修行することとなる。その安泰寺にいる雲水たちの会話はちょっと面白いな。
 さまざまな人間がいれば『そこに「摩擦」が生じるのも当然のことです。日頃味わう鬱憤の多くはこの摩擦が原因ですが、叢林においては、この摩擦には大きな意味があります。摩擦により互いの「エゴの角」が和らぎ、「自分が、自分が」という自己中心的な考え方を減じさせます。自分には見えないけど、しつこく自分の鼻にこびりついている、その「メガネ」のゆがみを気づかせてくれるのが、摩擦の働きです。四字熟語で言う「切磋琢磨」はまさにこの意味です。』(P85-6)切磋琢磨の意味、なるほどなあ、そうやって意味を説明されると今まではそんな特別な言葉という風に意識していなかったが、感慨深い言葉に思えてくる。
 阪神淡路大震災を見て、何も行動せずにテレビ前で炊き出しを見て、俺らよりいいもの食ってると発言した堂頭を見たり、地下鉄サリン事件など世間で重要な事件が起こっているのに人里から程遠い場所で何も行動しない自分たちについて考えを巡らし、多くの雲水たちが安泰寺から下山して、著者も下山してドイツへ帰ろうと一回思ったが、安泰寺のOBと相談したら、お前のような理屈っぽい人間では安泰寺で悟れないから、一旦厳しい臨済宗にはいればいいだろうといわれて、その言葉通りに一旦安泰寺を下りて臨済宗へはいることとした。
 臨済宗では理不尽なオールドタイプの体育会系的なしごきがはびこる、警策を新人相手に皮膚が変色したり皮膚が破れるほどに打つというようなことが平然と行われる異世界じみた恐ろしい場所で、そこで徹底的に心身を消耗したことで悟りを開き、世界が輝いて見えるという体験をした。そして長年考え続けていた「生きる」ということは哲学的な難問でなく、「答えそのもの」であるということを心のそこから実感し、そういうことだ、それが本当のことだということが著者の中で答えがでた。
 しかしその一方僧堂で、年長だが要領が悪く悪質な体罰のようなことをやらされていた僧侶に対して何も声を上げられない自分に無力感を覚えて、この臨済宗の寺を去った。
 しかし日本では単純に自分のために仏教の修行をしている人は、それが本来正道的な仏教の門に入る人なのに、臨済宗の寺に入っているときに仲間の僧侶はその多くは寺を継ぐために過酷な修行に耐えているという人たちばかりだったということもあり、著者が自分のために修行していることを珍しく思われ、偉いんだなと感心されたというエピソードを見て、そういう人は現代の日本では本当に稀有なんだと改めて実感した。安泰寺の人たちは在家から出家した人たちばかりで、寺生まれの人はいないということだが。
 安泰寺の経営難から師匠である堂頭さんと、堂頭さんの師匠である大藪先生の間にいさかいが起きて、大藪さんが著者に数年内に寺を譲れと発言したことで、著者と堂頭さんとの関係がギクシャクしたものとなる。
 そうしたこともあり、一旦安泰寺に戻った著者だったが、再度安泰寺を下って大阪でホームレスをしながら仏道を説くという生活をしばらくしていたようだ。ただ、辻説法はまったくうまくいかなかったようだが。その間に妻となる女性とであったようだ。
 その後堂頭さんが事故で死亡して、誰も次の住職になりたがらなかったので著者が住職となって現在に至る。
 最後の住職になってからの著者が、日本人と欧米人とで、日本人は自分についての意識が弱すぎ、欧米人は自分が確固としすぎているためそれを消すことができないため、それぞれに対してたとえを変えたり、言うことを変えたりしているというのはちょっと面白かった。