後水尾天皇

後水尾天皇 (中公文庫)

後水尾天皇 (中公文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

朝幕対立の時代に即位した青年天皇徳川和子を妃に迎え学問と芸道を究める。幕府の莫大な資金を引き出しながら宮中の諸儀式を復させ、修学院離宮を造営する。“葵”の権力から“菊”の威厳を巧みに守りつつ、自ら宮中サロンを主宰、寛永文化を花開かせた帝の波瀾の生涯を描く評伝の決定版。

 江戸時代の最初期の天皇である後水尾天皇の評伝。文化人である後水尾天皇を書くことで、当時の朝幕関係やこの時代の宮廷そして京の学問や文化(つまり寛永文化)についても書いている。寛永文化の特徴としてこの当時はまだ「近世的身分秩序に閉じられていなかった」ことがあげられる。そのため芸能の寄り合いで地下の者でもその芸能に優れているのであれば選ばれて参加ができ(例えば後水尾院サロンでの、立花の二代池坊専好など)、殿上人が同じサロンに含まれていた。そのような意味でも寛永文化を象徴するのが後水尾院のサロンである。なおこの時代の他の有名なサロンとしては、京都所司代板倉のサロンなどがあった。
 後水尾天皇の父である後陽成天皇は秀吉の死後、院生の復活というもくろみもあり、何度も譲位を主張したが、家康やその他五奉行に却下された。しかし当時の家康は一大大名であるので、彼一人の意向(思惑)で譲位を止めたというわけではない。
 そして1609年に官女密通事件が起こって愛する女たちにも裏切られたことで、さらに後陽成天皇の譲位を願う思いは募った。そしてこの事件が起こった年についに譲位を幕府に認められたが、家康の死によって延期とあいなる。ちなみに、なぜ譲位することを幕府に伺っていたのかと言うと、譲位と即位の儀式には巨額の費用がかかり、上皇が住む仙洞御所も建築しなければならないから、それらをするには幕府の援助が必要不可欠だったからそうして幕府にお伺いをたてていた。
 後陽成天皇は自身の長男、次男(一宮、二宮)を嫌っていて、秀吉の死後に譲位を願い出たときから弟の八条宮に皇位をつがせようとした。そしてそれが一宮、二宮がいるのに八条宮に譲位しようとすることも理由としてあげられて却下されると、ほとぼりが冷めるのを待って、一宮と二宮を出家させて皇位に就けないようにした。しかし三宮(後水尾天皇)だけ出家させなかったのは彼には隔意がなかったのか、それとも息子を一人も残さないのは問題となり、まだ三宮が押さない間に何くれと理由をつけて八条宮に好意を告がせるつもりだったのか? そして三宮は後に、水尾天皇が本位ならず兄を退けて天皇居に付いた天皇だったことから、「後水尾」という諡号を選ぶ。
 しかし当時の後陽成天皇の三宮への重いがどんなものであっても、その後今まで何度も譲位を否定してきた幕府のスケジュール通りに三宮を元服させ譲位することになったから、幕府への悪印象が、後水尾天皇への印象と二重写しとなって、後陽成院後水尾天皇を嫌悪することになる。そして後陽成院後水尾天皇を疎ましく思う気持ちは、臨終の床にあっても変わらなかったようだ。後水尾天皇は臨終の床にある父後陽成院の枕元にすわり、手をとって涙を流していたが、後陽成院はそんな彼を正視することはなかったというエピソードからも、院がどれだけ後水尾天皇を疎んでいたかが伝わってくる。
 1612年、旗本紫山権左衛門が自身の小姓を殺したことに対して、同輩の小姓大島逸兵衛が主君の紫山を殺害して逐電した事件。幕府が彼を捕まえて調べると、小姓が徒党を組んで主君だろうとも理不尽なことが会ったら互いに復讐することを約束していた。その党類は「かぶき者」の一党であり、70名以上が逮捕される。
 そのように『かぶき者の倫理が、封建的な主従道徳にまっこうから反し、一党の盟約を最優先させる、言ってみれば秘密結社であった』(P22)とは個人的にかぶき者に徒党を組んでいるという印象なかったから意外だった。
 江戸時代後期には一口に堂上十万石といわれたが、それは禁裏御領だけでなく、公家家禄、宮家、宮門跡領などを含めたものをいった。てっきり、大名家みたいに10万石という収入が渡されてその中から天皇から(少なくとも形式的には)、御所や公家各家などに配分していたのかと思いきや、そのように禁裏は禁裏御領を受け取り、そして九条家九条家近衛家近衛家でそれぞれ公家家禄をなどと別々に幕府から受け取っていたのね。
 しかし武家昵懇の家は比較的高い石高を持っていたというのを見ると、そうやって別々に渡していたから幕府が個々の公家の収入(自分たちに都合のいい公家の収入)を差配できたし、また武家(徳川家)よりの公家の収入が天皇などに減らされたりしないようにそうした方法をとっていたということでいいのかな。
 禁裏の収入は当初約1万石だったが、後水尾天皇の時代に2万石に倍増する。そしてその後1705年にさらに約1万石増えて3万石となり、3万石で幕末まで続く。
 その収入とは別に後水尾天皇時代に後陽成院は仙洞御領として2000石、後水尾が院となってからは仙洞御領として最初3000石、寛永11年(1634年)に7000石加えられて1万石の収入があった。そして後水尾院の中宮である東福門院徳川秀忠の娘徳川和子)の女院領も1万石ほどの収入があった。
 和子入内をきっかけに、寛永期には禁裏の収入が約4倍(1万石から、2万石+仙洞御領1万石+女院領1万石=4万石)となり、急速に禁裏の経済が豊かになる。
 幕府は公家に家業(学問)に専念せよということで公家の行動を規制したが、それは同時にその権利を保護したという側面もある。また、天皇におけるそれは中国唐代の帝王学「群書治要」であり、歌学と有職学。後水尾天皇は歴代天皇の中でも禁中並びに公家御法度の規定を体現した天皇であり、彼のそうした姿が江戸時代や近代における『天皇像を形成するうえに大きな役割をはたした』(P61)。幕府によって公家に赦されたのは学問だけであったが、同時にそうした学問稽古こそがのちに後水尾天皇が命をかけたところであった。
 後水尾天皇は四辻公遠の娘でおよつと呼ばれた御寮人を寵愛していて、彼女は既に皇子も出産していた。そのため徳川和子との結婚に気が進まずに、弟に譲位して婚姻を逃れようとしたがそれは叶わなかった。そして、こうした事情もあり和子入内一件(結局1620年に入内)は、後水尾天皇と二代将軍秀忠の間の緊張関係だけでなく朝幕間の軋轢を生んだ。
 『この時代でも、天皇は決して閑職ではなかった。はなはだ多忙。年中行事一つとっても、実に数多くの行事がひかえていた。』(P81)
 紫衣事件で沢庵らは元和の法度の非現実的で、寿命的にほとんど実現不可能な規制や修行を禅の修業をただ単に透過した公案の数で計ることにたいする浅はかさなどを指摘し批判した至極当然の道理にかなった抗議書を書き、流罪となる。
 1629年後水尾天皇が34歳のときに、天皇在位しているときは玉体を傷つけられないため、灸治を受けるために、和子との子である女一宮(後の明正天皇)に譲位しようとする。しかし先代の後陽成天皇も在位中に灸治をしているため、それが譲位の口実になるかは微妙なようだが、とにかくその理由で譲位しようとする。そうした理由としては、紫衣事件の判決に対する抗議行動とも考えられる。
 結局幕府の賛意は得られなかったが、公家たちを集め、公家衆もその集められた理由もわからぬ中で、女一宮への譲位の儀式が行われた。そうした突然の譲位に対する京の噂を細川三斎は息子に書き送っているが、その中に皇室の裁許権を真っ向から否定した紫衣事件、公家衆の官位にまで幕府の干渉があることのほかに、隠れた理由として中宮和子以外の女官から生まれた皇子が殺されたり、流産させられていたという風説が書かれている。実際、後水尾天皇は多くの子がいるが、皇室の系譜を見る限りはじめのほうの子供は和子の子ばかりであるということを知ると、流石にそこまではしないだろと思うと同時に、その風説にいくばくかの信憑性を感じてしまう。
 幕府は京都所司代の板倉を通じて京都の文化人、上層町衆を取り込む。そんな中で本阿弥光悦は代官的な優遇を受けて、彼はそこに文化人村を作る。そのように幕府のそうした政策は宮廷や町衆の文化の創造性を奪う方向ばかりに働いたわけでなく、経済基盤を安定させて新たな文化活動を生み出すことにも大きな役割を果たす。
 御所の花畠、紹介あればたとえ武家でも町人でも見物できた。まあ、五摂家の近衛が後水尾院にそれを尋ねているのだから、そこと接点持つのも難しいだろうから、当然それなりに上層の町人、文化人でないと無理だったろうが。
 後水尾院は立花を非常に好み、禁中立花の場が提供されたことが立花の大成に大きな役割を果たす。『日本花道史の側からみても後水尾院は最大のパトロンの一人であったといえる。』(P164)そして1637年に二代池坊専好は法橋に序せられる、その10年後には身分を問わない芸能での自由な交流はなくなっていき『かつて地下の者も同座して互いの技術を磨くサロンの土壌がようやく失われ、町のものと堂上との間に超えがたい溝が掘られてきたのであった。』(P177)
 後水尾天皇儀礼や学問について多くを著述を残し、その残された量は歴代天皇の中でも『空前絶後』(P200)のもの。そのように後水尾院は多くの学芸をよくしたが、その中でも和歌では後鳥羽院以来の歌学への執心ぶりを見せた。
 後水尾院、「蜘蛛手」という縦横七列、対角線の斜めで二列どこから読んでも歌になるという作品を残しているというのはすごいな。
 後水尾院、『御幸の自由が認められるのなら、ほかに何の望みもない』(P235)と、それなりに気軽に外出させてくれと訴える。その願いの強さに、半ば閉じ込められているともいえる生活への辛さが伺え少しほろりと来るな。そしてその願いがかなえられたのはよかった。
 そうして外に出られるようになって色々と見て廻り参考にしながら、修学院を作る。修学院は「日本建築集中講義」に出ていたので知っているけど、それ後水尾院が作ったものだったとは失念していたが、そうだったのね。なんだか再度「日本建築集中講義」で修学院の部分を読みたくなってきたな。だけど、以前図書館で読んだもので、手元に本がないからいずれ文庫が出るのを期待して待つほかないかなあ。
 修学院、寛文年間(1661-73)になると『一般の僧侶や、寺に関係する町の人々など、あたかも今日の離宮見学と同じような団体の見学まで行われていた。』(P266)寛永文化の名残。見物したいと申請したあと、許可されたら許可証である割符を貰う。その後は建物を見学したり、前もって断ると池の舟も準備されるのでそこで持参の弁当を食べたりして一日楽しむ。
 後水尾院が洛北の山荘(修学院)を訪れるときは必ずといっていいほど東福門院と連れ立って行ったというほどに、晩年の後水尾院と東福門院徳川和子)の仲は円満だった。それに東福門院は、他の女房から生まれた子も自分の子として即位させたり(これは政治的な意味もあるだろうが)、また自分の入内前に寵愛を受けていたおよつ御寮人の娘梅宮に対しても非常に親切にしていて援助をしたり便宜を図ることが多く、梅宮(文智女王)にとても感謝されていた。
 巻末の「寛永文化論 あとがきにかえて」林屋辰三郎氏が後水尾院時代の文化を、桃山文化元禄文化とも異なった性格を持つのではないかとしてその時代の文化を寛永文化と名づける。その担い手は、公家社会と京都の上層町衆。