オーパ、オーパ!! 2 開高健 電子全集15

 kindle。釣り紀行文。
 「アラスカ至上編」1984年、キング・サーモンを釣りにアラスカのキーライ河に行く。キーライ河のキング・サーモンの遡上は5月末から始まるが、7月2週目の一週間から10日ほどのセカンド・ランと呼ばれる第二群は体が大きく『平均五十ポンド台になる。しばしば六十ポンド、七十ポンド、八十ポンドというまるでイルカみたいなのがまじる。キングの北米大陸におけるギネス・ブック風の記録物はたいていアラスカであるが、それもたいていキーナイ河の産である。』(N86)
 セカンド・ランのキング・サーモンを目指して1シーズンに20万人の釣師がやってきて、釣れる鮭は七、八千匹。大物狙いで集まってくる釣師の数は多いが、その中で実際に釣ることができる人は限られている。しかし無事に釣ることができた。
 ホテル近くの小さなパン屋で出会ったプリモ・フォレスト氏にハンティングに誘われて、ハンティングをすることになる。『べつに会話でたいしたことを話しあったわけではないのだが、何かいいものが分泌されたらしい。それがリッチ・マンであるらしい紳士の気まぐれを刺戟したものと思われるが、その何かは私には私には全く説明のしようがない。リッチ・マンは気まぐれであることを古今東西、その特徴の一つとしているが、それは気まぐれをその場その場で現実に移せる余裕があるからなのであって、私だって、ロスチャイルド様の爪の垢ほどの財力を持っていたなら、現在の性格のままで気まぐれの名声を発揮できるであろうし、キミだっておなじだろうと思うよ。』(N774)射撃をしたことがなかったのでハンティングの前に射撃練習に行った後に狩猟に挑んだ。
 「コスタリカ編」常にないくらい連日雨が降って中々釣りができなかった。今回の狙いはターポンという巨大な魚。この魚は『”ちょっと大きい”で五十ポンドぐらい。”ふつう”とか”一人前”は七十ポンド、八十ポンドで、このサイズが最も狙われる。百ポンドをこえるのもそう珍しくはない。』(N1678)ただし肉はおいしくないようだ。
 今回は、現地に暮らす日本人の朝田夏雄氏の世話になる。しかし初日は午前にスズキ一匹で引き揚げ、午後には雨になる。二日目は雨続き。三日目は雨が小ぶりになった時を見計らって、近くの水路にガスパール(ガー・パイク)を釣りに行くが釣果はナマズ二匹。結局10日ほど、まともに釣りができなかった。『朝田氏はコスタリカを熱血のままにしんそこ愛しているので、ターポンだ、ボボだ、牧場だ、オルキディア(ラン)だと思いつくままに徹底的に私たちに何もかも見せたがっているのだが、それが一つ一つ徹底的に思惑からはずれてしまうので、気の毒でならない。』(N2088)雨続きで別の方策で楽しませようとするのだが、それも中々上手くいかない。そのように天候に恵まれない旅ではあったが、最終的には当初の目的だったターポンも無事釣ることができた。
 「モンゴル編」あまり魚を食べず、釣り人もほとんどいないモンゴルでは大きなイトウがまだ多く残っていると聞いて、まだ共産主義体制の時代のモンゴルへイトウ釣りへ行く。この旅はテレビとのタイアップ企画だったようだ。今回の旅も運が悪かったが、最終日にイトウを一匹釣ることができた。しかし来年はもっと大きなイトウを釣ろうと決心してモンゴルを去る。
 そして翌年1987年に二度目のモンゴル行き。今回は『モンゴル政府のラジオ・テレビ委員会は東京から送られてきた第一回目の紀行のヴィデオ、つまり昨年度のわれわれの釣行のドキュメンタリーのテープを見て興奮し、感動し、あらためて大穴場を真摯に調査しにかかり、討論の結果、フブスグル地方のツァガン湖とそこから流れるシシクット河ときめた。』(N3291)
 シシクット河では穴場を知る人がついてきてくれたこともあって、たくさんのイトウが釣れた。そして最終目標だった120センチには少し足りないが、そのくらいの大物を釣ることができてモンゴル編は終わる。
 「中国編」中国ウイグル自治区アルタイ山脈中のハナス湖で新疆大学生物学科の向助教授が展望台から湖を観察していると、魚体9〜12メートルはあろうかという謎の巨大魚を発見した。その向助教授はその巨大魚をイトウと推定。著者はそんなUMAのような魚を釣りに行く。これもテレビ企画で他のパートとは違い、UMA探索的な話。中国側からの多大な協力もあった今回の旅だが、目的の巨大魚は当然ながら釣れず、他の魚もあまり釣れずに終わった。
 「スリランカ編」は魚釣りはやらず、宝石や紅茶の話などが書かれた紀行文となっている。
 「付録1・担当写真家による回顧談他」では、著者の釣り旅に同行していた人によるモンゴル旅の裏話や著者の思い出などが語られる。
 遊牧民の普段の生活の『簡素さの中に大切なものがあるという視点で映像化しようとするわけですが、モンゴル側はそう考えず、民族の恥部を取ろうとしているとみるのです。(中略)そこでモンゴル側といろいろやりとりをするのですが、開高さんが御自分の考えを正直にぶつけるものですから、最初、モンゴル側は強烈に反発しました。』(N5736)しかし信頼関係が築かれるにつれて、その考えが理解されるようになっていった。
 『結局、翌年の二回目の取材では、好きなところへ行って、好きなように取材して結構です、ということになっていました。制約はほとんどなくなり、撮影した映像をチェックすることもなくなった。それどころか、日本で放映したその番組をモンゴルテレビが何度も放映していました――もちろん日本側の許可もとらないで(笑)。取材に同行していたモンゴルテレビのスタッフも感動したのでしょうね。とにかくこれはいいものだ、たとえ汚い部分、貧しさが撮られていても、それは決してモンゴルを否定的にとらえて撮影したものではない。モンゴルにとってもプラスになる、ということで放映したわけです。ずっと後で知ったことですが、モンゴルテレビのスタッフが首相に呼ばれて、「いい番組を放映した」と誉められたそうです。』(N5786)このエピソード好き。
 そして開高氏の死後、そしてモンゴル民主化後の話。『九三年一月にモンゴルのウランバートル新聞に「モンゴル出自の開高ウブー」という開高さんの大々的な特集記事が掲載』(N5897)。ウブーは好々爺、おじさんといった意味。その記事の筆者は『開高さんとはまったく面識はない。たまたま取材で開高さんがベースキャンプにしていたタリアット村に立ち寄った際、村人たちが開高ウブーという日本人を追慕し、さも大切な人を慈しむように「開高ウブー」について語り、伝説のように語り継いでいることを知って驚くのです。「当時は社会主義体制が厳格なときであり、容易に資本主義国の日本人などと心を開いて接することは不可能だったはずなのに何故だろう?」と、筆者は不思議な思いで取材を開始するのです。』(N5910)そのエピソードも興味深い。そして話を聞くとその記事が読みたくなる。