子どものための哲学対話

子どものための哲学対話 (講談社文庫)

子どものための哲学対話 (講談社文庫)

メタローグ
《世の中いろんなことにはね、公式の答えというものが用意されているんだ》。しかしその公式の答えを疑ったときに何がみえてくるのか‥‥全体に子供向けの作りで、「ロダンのこころ」でお馴染み内田かずひろ氏の可愛い漫画まで付いているが、中身は非常に深い。左翼と右翼ってなに?という問いには、どっちも同じようなものだよと軽くいなし、対立とはつねになかまうちの対立だと喝破する。また、死刑以上の重罰はないということは、世の中死ぬつもりならなにをしてもいいって暗に認めていることなんだよ、なんて書かれていて‥‥いや、これは過激なお子様が大量生産されそうな凄い本です。(守屋淳
『ことし読む本いち押しガイド1999』 Copyright© メタローグ. All rights reserved.

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出版社/著者からの内容紹介
子どもは、考える葦である。

ぼくはなぜ、生まれてきたのか?
どうして勉強をしなくちゃいけないのか?
こまっている人を助けてはいけない?
うそをついてもいい?
元気が出ないとき、どうしたらいいか?
友だちなんていらない?
泣くから泣き虫なのか、泣き虫だから泣くのか?
地球はほんとうに丸い?
死んだらどうなる?

40の疑問をぼくと猫のペネトレが考える。中学生から。

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最近原始仏教の本をちょっと読んでみて、なんか論理を理解する面白さの片鱗がわかってきたような気がしたので、こうした易しい哲学の本を読んでみた。
ネアカ、「ただ存在しているだけで満ち足りている人」のこと。ネクラ、「なにか意味のあることをしたり、他の人に認めてもらわなくては、満たされない」人のこと。
だけど、ネアカ、ネクラのイメージとは違うなあ、と思ってwikiを見たら、ネクラって『「明るく見えるが、実は暗い」という意味』ということばだったのね、その後に新たに付された単純に内向的か、社交的かという意味でしか今までとらえてなかったからちょっと違和感があったが、そういう元々(?)の意味で考えれば納得がいく。まあ、この本でのネアカ、ネクラの解釈は、また新しい著者独自のものなのだろうけど。だけど、そうした新しい(?)分類の仕方に、従来使われている語を使い、違った意味や定義を付すというのは、ちょっとなあ。
『広く使われるようになった新語の通弊ではあるが、ネクラ・ネアカという言葉も広まるにつれて多様な意味を獲得していった。「内向的か・社交的か」』という意味が強調されるようになったのはその一例である。内向的であればネクラ、外交的であればネアカと表現する。』。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%83%A9
人生体験マシン、偽を「ぼく」は否定的に捉えているけど、俺は偽でも幸福なほうがいいなあw
ペネトレ:世の中のいろんなことにはね、公式の答というものが用意されているんだ。世の中をこのままちゃんと維持していくためには、どうしてもみんなにそう信じてもらわなきゃこまるってことなんだよ。そういうものを、すこしも疑わずに信じられる人の方が、うまく、楽しく生きていけるんだけどね。でも、もしも信じられなかったら、無理はいけないな。』(中略)『小さい集団にはその外というものが必ずあるからね。外に出ればいいんだ。』(中略)『でも、死なないかぎり、この世の中そのものの外に出ることはできないな。だから、世の中そのものが持っている公式の答え、世の中が成り立つためにどうしても必要な公式の答えは、受け入れなくちゃならないんだ。すくなくとも、受け入れたふりをしなくちゃならないんだ。』(P41-42)「すこしも疑わずに信じられたら楽」とか、「世の中が成り立つためにどうしても必要な公式の答えは、受け入れなくちゃならないんだ。すくなくとも、受け入れたふりをしなくちゃならない」という言葉にはすごくわかるし、納得がいく。
「情けは人のためならず」、本来の意味(自分のため)という話。「ぼく」はずるがしこいといっているが、まあ現世でその情けをした人に返せといっているわけでなく、功徳を積んだり修行中の段階での自分のためのことだから、ちょっとピントずれてない?まあ、言葉で言うと「現世でその情けをした人に返せ」的な意味としても取れるから、そういう理解をされる嫌ったり、あるいは『むしろ、ほんとうは利己主義が原因で人を助けたくないときに、その口実として「同情して助けてやることはその人のためにならないんだ」って意味のことを、ひとまえでは言いたくなるんじゃないかな?』(P54)というのは理解できるので、言葉の意味が変わった理由の説明としては、すごく合点がいく説明だ。

ぼく:あそぶためだけなら、勉強なんかぜんぜんしなくたって、じゅうぶん楽しく遊べるんじゃないかなあ。それに、どうせ遊ぶためなら、将来遊ぶより、いま遊んじゃったほうが、ずっといいじゃん?
ペネトレ:まえに、ちゃんとした人とどうしようもないやつの区別をしたの、覚えてる?ちゃんとした人っていうのは、自分の未来のために自分の現在を犠牲に出来る人のことなんだ。逆に、自分の現在のために自分の未来を犠牲にしちゃうのがどうしようもないやつさ。』(P75)つねにどんなことでも楽しめる人はすごいと思うが、現在を犠牲に未来の安楽を望むのと、現在を楽しみ未来を犠牲にするのでは、どちらも変わらないと思うが。というか、こういう言説を安易な現実肯定論で、働け働け、勉強しろ勉強しろ、と追い立てている少なくとも高度成長期以来(というか西洋的なもの)変わっていないイデオロギーで、ただ単に1つの尺度というだけで、普遍的なものでは全然ないだろうから、易しくても哲学の本でそういう言説を目にするとちょっと鼻につく感じが。まあ、単にこちらの感受性がずれているだけの話なんだろうけどさ。
ペネトレ:でも、分類のしかたによってはクジラは魚でもあることは、たしかなことだよ。外形や生活環境よりも内部の仕組みを重視するって前提があってはじめてクジラはほんとうは魚じゃないって言えるんだ。じゃあ、なぜ内部のしくみのほうを重視するのかっていえば、それはぼくらがそういう文化のなかに生きているから、としかいいようがないんだよ。』(P103)「内部のしくみのほうを重視するのかっていえば、それはぼくらがそういう文化のなかに生きているから、としかいいようがない」という指摘には、目からうろこ!!

青い鳥関連の話、ちょっとわかりにくいなあ、と思っていたら。その後のニュートンの話に出てきた『見たんじゃなくて、見かたを変えたんだよ。つまり、考えたんだ。森羅万象すべてのものを、引力って観点から見る新しい見かたを発明した、と言ってもいいな。』(P105)でようやくなんとなくだが理解できた。