興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和

内容(「BOOK」データベースより)

一四世紀初頭、アナトリアの辺境に生まれた小国は、やがてバルカンからアラブ世界、北アフリカをおおう大帝国に発展した。メフメト二世、スレイマン一世ら強力なスルタンの時代、大宰相と官人たちの長く安定した支配、イスタンブルに花開いたオスマン文化。多民族と多宗教の共存した帝国が、一九世紀の「民族の時代」の到来により分裂するまでを描く。

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 オスマン帝国の通史。18世紀末から19世紀初頭にかけてオスマン帝国が近代化するまでの現在のどの民族の国でもなかった、トルコ人の国ではなく「オスマン人」の国だったオスマン帝国の歴史が書かれる。オスマン帝国の歴史について詳しくないので、こうして500年という長い期間の歴史がまとめられた通史はありがたい。
 オスマン国のはじまりとか、どう成長していったかについて順序を追って詳しく書いてあるものを読むのははじめてなので面白いし、中世から近代におけるオスマン視点で見た欧州への関与やその他方面での動きも面白い。

 アナトリア地方ではオスマン帝国時代の建造物の存在感は薄い。それは現在のトルコの大部分を占めるアナトリアの地がオスマン帝国の本拠地と特別意識されていたわけではないことを表わす。『実はオスマン帝国は、バルカンの大国として出発した国であり、アナトリアの多くはその後に征服された場所だった。』(N47あたり)
 トルコ系の大半は、バルカンやアラブの人々同様被支配民だった。『オスマン帝国は「オスマン人」というアイデンティティを後天的に獲得した人々が支配した国としかいいようがない。「オスマン人」の集団に入っていったのは、現在でいうところの、セルビア人、ギリシャ人、ブルガリア人、ボシュク人、アルバニア人マケドニア人、トルコ人、アラブ人、クルド人アルメニア人、コーカサス系の諸民族、クリミア・タタールなどである。』(N47)そのように出身民族を問わずに支配階級に入れた国。
 しかし現在トルコ人のみがオスマン帝国の末裔として位置づけられている。その理由はその他の国々がオスマン帝国から独立するときに、オスマン帝国と敵対してその支配を否定して建国した。そのためオスマン帝国の末裔と名のらなかった。
 オスマン帝国支配下で民族がまだらに広がったことをマイナスに捉えて、その責任をオスマン帝国に押し付ける向きもあるが、民族を「整理」しなかったのがマイナスであるはずもなく、それを問題にしたのは20世紀の国際関係と独立した国々の国内事情である。末裔と名のらないバルカンや中東の国々がそのような問題をオスマン帝国のせいとしている。
 そのような『「何人の国でもなかった」オスマン帝国は一八世紀の末〜一九世紀の初頭には終焉を迎える。その後の一世紀は、新しい近代の世界秩序のなかでの、「近代オスマン帝国」の時代である。そこからは、長い時間をかけて諸民族の国が自立し、最後に残った部分は、「トルコ人の国」になっていた。』(N82あたり)
 オスマン帝国トルコ人の国ではなく、西欧の国がキリスト教だった程度にイスラム教だったというだけで特別イスラム帝国、宗教国家だったというわけでもない。では、どのような国だったかといえば、『オスマン帝国は、当該地域、すなわちバルカン、アナトリア、アラブ地域のそれ以前の伝統を受け継ぎ、諸制度を柔軟に統合し、効果的な統治を実現した中央集権国家だった。帝国周辺での対外的な戦争により、内側の安定と平和を守った国でもあった。』(N170あたり)分権的な遊牧民の征服国家とは違うもの。また、オスマン帝国は基本的に遊牧民を可能な限り定住化させる政策をとっていた。16世紀の調査で、その割合が最も高い中央アナトリアやシリアでも遊牧民は人口の4分の1以下。

 11世紀にトルコ系遊牧民アナトリアに進出。12世紀アナトリアはトルコ系のルーム・セルジューク朝とダニシュメンド朝、そしてビザンツ帝国という三勢力が均衡していた。13世紀にルーム・セルジューク朝がダニシュメンド朝を倒すも、ルーム・セルジュークはモンゴル軍に敗れてトルコ系小国家分裂の時代に入る。その時代に後にオスマン朝となるオスマンに率いられた集団は、西アナトリアに誕生する。
 ルーム・セルジューク朝ビザンツの宮廷間での人的交流は盛んだった。宗教は違えど国家間の国境を越えた交流があって、互いに異質な存在というわけではない。
 小国分裂の中の小国家の一つとして生まれたオスマン国、1320年代にオスマン侯国と名のれるほどの大きさまで成長。1326年にオスマン没して、40年在位したオスマンの子オルハンが後を継ぐ。『オスマン侯国がアナトリアのライバル小国家群から抜きん出たきっかけは、それがヨーロッパ側に展開したことにある。』(N485あたり)そちらに進出してから30年後にバルカンの大国家となり、その力でアナトリア側の諸侯国を圧倒した。
 バルカンとアナトリア、『山がちな地形は、海峡をはさんでアジア側(アナトリア)とも良く似ている。農耕をおこなう定住農民、山と平地を往来する遊牧民(牧羊民)、そして山中に隠れる賊たち、農産物の集散地として点在する都市といった社会の仕組みも、共通項が多い。天水に頼るの農業の手法も、基本的に同じである。ビザンツ帝国オスマン帝国が、コンスタンティノープルをコンパスの視点として支配したアジアとヨーロッパは、自然環境やそれに規定された生産活動の面で一つながりの地域であった。』(N495)両地域はアジアとヨーロッパにわかれているが良く似た特徴を持つ一つの繋がった地域。
 オスマンが進出したバルカンは西アナトリア以上に激しい分裂状態にあった。ビザンツ帝国は内部の熾烈な皇位継承争いから、奇抜な同盟を結ぶこともいとわなかった。そのこともあってビザンツとの同盟を結んだオスマン侯国はビザンツの妖精によってバルカン側で戦い、そうすることでバルカンへの影響力を増す。1352年にダーダネルス海峡のヨーロッパ側の要所ゲリボルを得て、地震の混乱に乗じてその周辺地域を支配下におさめた。そしてオルハンの死後、王子間の抗争に勝ち抜き即位したムラト一世は1362年にアドリアノープルを手に入れそこを首都にしてバルカン側で勢力を伸ばしていく。
 しかしムラト一世の後を継いだバヤズイトがティムールに敗れる。そしてティムールが去った後オスマン家の後継者争いが20年続く。しかし後継者争いが終わると、ふたたび強大なオスマン侯国が現れた。
 そしてムラト二世が、ドナウ川から中央アナトリアまでの祖父バヤズィトとほぼ同じ領域まで領土を回復する。『オスマン国家にとって「真の領土」ともみなしうるこの地域』(N657)アナトリア半島だけでなく、ヨーロッパ側も真の領土。
 オスマンはバルカンの群雄割拠する他の諸勢力と同じルールの下で行動し、その中で力をつけていった。決して異分子が圧倒的力で制圧したというわけではない。
 そして『オスマンの支配層には、これまで考えられてきた以上に、バルカンの在地出身者が多く加わっており、彼らはトルコ系の支配集団の脇役ではなかった』。そして『オスマン帝国の前半は、アナトリア出身のトルコ系軍人と、バルカンの旧支配層からの転身者の双方によって支えられていた。彼らが合体して生まれたのがオスマン支配層だった。』(N695あたり)
 15世紀までは『オスマン支配をうけいれたバルカンやアナトリアの旧王族・貴族の子弟の中から適当な人材を選び、「スルタンの奴隷」にする』ことで、彼らは宮廷で教育・訓練を受けた。そうして彼らの『多くは、オスマン帝国の軍人政治家として活躍している。これは人質のようにもみえるし、オスマン支配層への参加による、自身と一族の生き残りの手段であったともいえる。』(N850あたり)実際にメフメト二世の時代(1451~81)の大宰相8人のうち6人がバルカン出身者で、4人はバルカンの旧支配層からで、うち3人はビザンツ貴族の子弟だった。
 そのメフメト二世からスレイマン一世までの100年で領土は大きく拡大した。メフメト二世の時代にコンスタンティノープルイスタンブル)を得る。その30年後にイスタンブルの人口はイスラム6割、非イスラム(キリスト、ユダヤ)4割という割合になり、その割合は20世紀まで変わらなかった。
 父王の死後、首都『イスタンブルにもっとも早く入った王子が継承権を得た』(N1185あたり)ので、後継候補をイスタンブルに近い県の軍政官に任命した。そこらへんの話もちょっと変わっていて興味深い。
 セリム1世がエジプトやイスラム教の聖地を領土にする。それによって『オスマン帝国は、イスラム世界の「守護者」となったのである。それを正しく実践しているかどうかが、ウラマーに先導された民衆によって判断・評価される。こうしたイスラム社会独特の「正義」の感覚が、この後、オスマン帝国にも広まっていった。エジプト征服は、バルカンの国として出発したオスマン帝国が「イスラム化」を深めていく、大きな転機となる事件だった。』(N1310あたり)
 スレイマンの治世は『軍人の活躍で拡大することによって成り立ってきた軍事国家がその拡大を止め、限られた領土を支配各層が協力して統治する官人たちの国家へと移行する画期だった。』(N1325あたり)スレイマン時代をオスマン最盛期とするのはヨーロッパにとっての脅威度を尺度とした評価。
 スレイマン没後の時代は『スルタンが戦争と政治の前線から消えていった時代だった。変わって、大宰相を中心とするオスマン官人たちによる支配が始まる。』(N1970あたり)
 17世紀以降は有力者の子弟や縁者が推挙によって「スルタンの奴隷」として宮廷に入った。
 そして16世紀末から17世紀半ばにかけて、徴税体制がティマール制から徴税請負制へと変わっていった。徴税請負制は徴税権を売って、実際に徴税した額と政府に渡す額の差額を徴税請負人がもらえるというもの。国庫に一銭も入らないティマール地を没収してそうしたから、大増収となる。
 戦争の長期化で在郷騎士は戦場に行けないことも増えて、そうした地没収された。しかし徴税請負権を得た常備軍の軍人の多くは首都にいるので、代理人を派遣するか下請負で在地の人間を利用した。そうした中で旧在郷騎士も下請負人になることもあっただろうが、少なくない数が農民化した。
 イェニチェリがその肩書と実態を持ったまま社会の様々な分野に進出したことで、社会に深く根を張ったことが政府がイェニチェリ軍の改革を難しくさせた。
 そして物故者が名簿から削除されず、そのイェニチェリ株が取引されてそれを高官が副収入としていた。そして『一七四〇年に政府がイェニチェリ株の売買を公認した』ことで、実数4万なのに蕪の数が40万までになった。そして『これらの主たる購入者は、富裕な都市の職人、商人たちだった。こうしてイェニチェリと市民の一体化はさらに進んだ。』(N3290あたり)
 フランスとの条約で、オスマン商人とフランス商人またはフランスの保護民との間でもめごとが起きた時にオスマン政府はフランス側に着かなければならないという者を結んでしまった。そのためオスマン商人としてイスラム教徒と利益を同じくしていたギリシャ正教アルメニア教徒の商人が、フランスの保護民となって商売をうまく進めようとした。そうしてキリスト教徒商人のオスマン体制からの離脱が始まる。
 欧州の影響・干渉もあって帝国周縁部の領土が独立し、失われていく。そして露土戦争の敗北をきっかけに、大きな変革が始まり近代化・西欧化する。
 そうしてできた近代オスマン帝国の『官僚は、トルコ人を中心に、アルバニア人、アラブ人などのイスラム教徒だったが、トルコ人には限られていなかった。』(N4335)多くの地域が独立した近代オスマンに至っても支配層をトルコ人と限定していなかったし、『諸民族の平等を謳うことで、彼らの懐柔に務めた』(N4380あたり)。
 しかし19世紀末にトルコ民族主義がおこる。
 そして第一次大戦の敗戦で欧州列強の地図上の分割で、イスタンブルなど多くの地域を失いその領土を中央アナトリアに限定されることに最後のスルタンが署名する。その理不尽な領土分割に激怒したトルコ民族主義を旗頭にした義勇軍が地図上の分割を阻止して、ほとんど現在の領土まで押し返す。そしてムスタファ・ケマルトルコ共和国として国内をまとめ上げた。