ジョゼフ・フーシェ

ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像 (岩波文庫 赤 437-4)

ジョゼフ・フーシェ―ある政治的人間の肖像 (岩波文庫 赤 437-4)

 フランス革命以降の政権や政体が代わるたびに多くの死者がでた時代に第一共和制時代でも、第一帝政時代でも、復古王政時代でも大臣を務めた政治家ジョセフ・フーシェを扱った伝記小説。
 フーシェは極めて強い忍耐力を持ち、いついかなる時も平静で冷静沈着な人間。
 『輝かしい栄光も人気というあやしげな幸福も、よろこんで彼は他人にくれてやる。情勢を達観し、人々を左右し、表面上の世界の指導者を実際においてあやつり、自分のからだは賭けないで、あらゆる博打のなかでも最高度の興奮を与えてくれる恐ろしい政治の博打を打つことで、彼は満足なのだ。(中略)ジロンド党員は倒れたがフーシェは残った。ジャコバン党員は追われたがフーシェは残った。総裁政府、統領政府、帝国、王国、そして再び帝国が消え滅びていったが、いつも彼は残った。その洗練された控えめと、完全な無性格に徹し、不堯不屈の無主義を押し通しうる図太さとによって、ただ一人の男、フーシェは生き延びたのである。』(P34-5)

 ○フーシェジャコバン派独裁終焉の後に一度目の失脚をする。
 僧院学校の教師だったフーシェはその時代にロベスピエールと親しくしていた。ロベスピエールが議員になった後にフーシェは僧衣を捨て、商人の娘と結婚して政治活動を開始する。そして1792年に国民公会の代議士に選出される。
 『彼の知っている党はただ一つ、これまでも忠実だったし、死ぬまで忠実であることを変えない党、すなわち優勢な党、多数党である。』(P29)そのためまず議会では穏健派のジロンド党に席に座る。そして当初は天秤がどちらに傾くか分からないので、議会で意見を言わずに見に徹した。
 1793年1月16日の国王死刑の賛否を問う投票では死刑賛成派が上回りそうだったので死刑に票を投じる。そうして『穏健主義者は一夜にして超急進派は、ウルトラ・テロリストとなった。』(P43)同じ陣営となったロベスピエールは変節した以前の友人に対して猜疑心を抱く。
 フーシェは総督として地方に派遣されて、過激で急進的な統治をしたことで名を揚げた。それでフーシェはリヨンの叛乱が起こった時には、最急進主義者として知られる存在となっていた。そのためリヨンに派遣されることになる。それまではフーシェは政治的処刑をやらず脅しで成果を上げてきたが、リヨンでは前任者クートンが穏便な処置をしたことが問題とされてお鉢がまわってきたので大量の処刑を行うことになった。
 その後ロベスピエールから呼び出される。フーシェがリヨンに行っている間にロベスピエールが議会を掌握して、多くの議員が議会から追放や処刑していた。フーシェは自分もロベスピエールによって処刑されかねない危険を察する。そこでフーシェは他の議員たちを秘かに訪れて、彼らの持っている独裁者ロベスピエールへの恐怖心を増大させて、多くの議員がロベスピエール打倒を決心するように働きかけた。そのかいもあってか議員たちは独裁者ロベスピエールへの反乱を起こして、ロベスピエールはギロチンにかけられることになる。
 ロベスピエール処刑を民衆が喜んだのを見た議員たちは革命を否定しだしたことで、フーシェは超急進派時代のことが問題にされて裁かれると再び身の危険を感じる。そして一人の熱烈な共和党員を支援して民衆を扇動しようとするも失敗。フーシェはなんとか命拾いしたものの議員の職を失い、その後三年間公の場での活動はなかった。

 ○フーシェは失意の時代を経て警務大臣に就任し政界の実力者となり、ナポレオンの下でも引き続き大臣を務め公爵となる。そして二度目の失脚。
 フーシェはその浪人時代、屋根裏部屋で妻子と苦しい生活をしていた。そして大臣バラーの密偵として汚い仕事をしていたが、それの仕事通してフーシェは後の警務大臣としての才能を磨いた。
 クーデターでバラーが最高権力者になる。その頃バラーにとってフーシェは欠かせない存在となっていたので職を与える。フーシェフランス共和国使節として海外へ赴き成功を収める。そして1799年に彼は警務大臣に任命された。
 フーシェが警務大臣に就任してわずか数カ月の間に非常に大規模で見事な諜報網を作って運用する。そうして方々にいる情報提供者からさまざまな情報や秘密を得る。
 そうしてフーシェは多くの情報や秘密を握ることになったが、彼はどの党派にも愛想よく接した。『こうして数カ月ならずして、悪魔フーシェは万人の寵児となっていた。(中略)今はもう彼の同僚たちもすべての党派も、フーシェを友人に持つことは愉快でもあり有利であると同様に、彼を怒らせて牙をむきださせては気味が悪いと分って、だれにもまして侮蔑を受けていたこの男が、なんでも知っており、しかも黙っているから有難いというわけで、たちまち無数の親友ができたのであった。ローヌ河畔の爆破された都市が、まだ建てなおされていないのに、すでにリヨンの霰弾乱殺のことはわすれはてられ、すでにジョゼフ・フーシェは人気満点なのだ。』(P168)
 フーシェはバラー政権の命数がつきたことを見抜いて、ナポレオン陣営に身を移すことを決める。彼は『ただ沈黙をもって彼は総裁政府を裏切り、ただ沈黙をもってボナパルトに恩を着せて、待ちに待っていた。このような緊張の数瞬間、決定二分前ともなれば、彼の両生類的な性質が最大の快感を味わうときなのだ。二つの党派から恐れられ、いずれの党派からも口説かれて、しかも自分の手の中で天秤の針がふるえているのを感触していること、これこそこの陰謀耽溺者にとっては、つねにあらゆる快楽にまさる快楽中の快楽になる。』(P177)
 そしてクーデターが起きてナポレオンがフランス共和国の統領となり、フーシェは新政府でも警務大臣に留まる。最初の数カ月でこの主従コンビはフランス国内を静謐にした。
 しかしフーシェはナポレオンが君主(終身統領)になることを望んだ時にそれを止めようとしたために不興を買った。それでフーシェは警務大臣から免じられたが、功労抜群であるため多額の金銭と元老院の椅子を与えらた。
 その後国際法を犯してのアンギアン公の処刑でナポレオンの周囲がにわかに騒がしくなった。そうして再びフーシェの手が必要となったので、政界に呼び戻す。政界復帰したフーシェの手腕でナポレオンは念願の帝位を手に入れて、フーシェは大臣に復帰する。
 『フーシェは終始、なんびとの臣下にもならず、いわんや従僕とはならない』(P216)。彼は『皇帝にどなられても、彼は決してふるえないで、声の調子もかえないで、事務的にこたえるのだ、「恐れながら陛下、臣はそう思いません」と。』(P221)そんなフーシェを『信用できず、怒り、またひそかに憎みながらも、ナポレオンは十年のあいだ最後の一時間にいたるまでも、フーシェを完全に払いのけることはできなかった』(P222)。
 1809年ナポレオンがオーストリア遠征に行っている時に英国軍が侵攻してきた。それに対してフーシェはナポレオンに話を通してからでは遅すぎるので皇帝に無断で国民軍召集して司令官を決めるなど見事に対処して英軍を退けた。その処置をナポレオンも褒め称えた。その功績でフーシェはオトラント公爵となる。
 その後フーシェは皇帝に依頼されたことを装って英国相手に和平交渉をしていた。そのことがナポレオン本人にばれて大目玉を喰らい、警務大臣を辞めさせられる。
 その後三年間政権から離れることになり、その期間中に糟糠の妻が亡くなる。
 その後ロシア遠征の失敗で権力がぐらついているナポレオンはフーシェをフリーにしておくのが危険と考えて彼を表舞台に引き戻す。

 ○復古王政百日天下フーシェの政治生命の終焉
 その後ナポレオンが敗北し、ルイ十八世の治世となる。当初フーシェは新政府にはナポレオンの大敵である自分も取り立てられるだろうと思っていたが、その気配がないので官職を得られるように運動したがその成果もなかった。
 その後ナポレオンがエルバ島から脱出し、軍が寝返って兵員を増やしながらパリへと向かう。フーシェはナポレオン復帰後に警務大臣に復帰。
 『帝政の復活と没落とのあいだのあの百日天下におけるくらい、フーシェが老練狡猾な、円転洒脱な大胆な才を示したことはない。世界の視線は、ナポレオンではなく、かえってフーシェにそそがれたのであって、彼こそ世界を救うものだという期待の眼が、すべてフーシェに向けられた。党派という党派は――嘘のような話だが――皇帝自身よりも皇帝の大臣のほうに信頼をよせたのである。』(P330)
 ワーテルローでのナポレオンの敗北を知り、フーシェはナポレオンをだたちに見限る。議会を動かしてナポレオンを退位させる。そして仮政府が作られるが、色々と工作したこともあってフーシェが政府のトップとなった。
 そしてフーシェは大臣の職と引き換えに政府をルイ十八世に売る。そして妻と死別して独身だった警務大臣フーシェと伯爵令嬢を結婚し、国王に結婚契約書の署名をしてもらう。しかしこの復古王政の貴族たちは、フーシェの旧悪を覚えているから強い悪感情を持っていた。そのため彼は大臣職を止めさせられ、外国の公使に左遷させられた。その後国外追放が命じられた。
 フーシェは各国に助けを求めたが、助けてくれる者はおらず後の人生を過ごす。彼は国外追放後最初はオーストリアの田舎町リンツに、その後は現イタリアのトリエステで後の人生を過ごす。そして急速にその名は忘れられていった。1820年に彼が死んだ後、回想録が出版されると聞いて慌てた者も多かったが、その回想録でもフーシェは生前と同様自分の握る秘密を明かすことはなかった。