自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)


内容(「BOOK」データベースより)
裁判は民営化できる、国債は廃止、課税は最小限に、婚姻制度に法は不要―国家の存在意義を問い直し、真に自由な社会を構想する。

 サンデルの本を読んだ後、そういった政治哲学の話をもうちょっと読んでみたいと思ったから、これを読んでみた。リバタリアンには正直惹かれないのだが、どういう思想なのかについて知りたいというのもあったし、食わず嫌いじゃないけど、ろくに知らないのに嫌いになるというのもなあ、と思ったから、というよりもこの思想は嫌いだと断言するために読んだともいえる(笑)。
 「ネオリベラリズム」という語は、リバタリアニズムに近い立場やナショナリズムへの傾きを持つ保守主義(個人的自由には介入認める一方、経済的自由は尊重する立場。この「保守主義」はアメリカのものね〈念のため言っておくと〉日本の場合は、次の権威主義のが近い)、権威主義(個人的自由、経済的自由どちらも尊重せず)に近い立場を指すこともある多義的な語というのは知らなかった、というよりもなんでそんなフワフワとした語が使われるのかなあ、「ネオリベラリズム」という語はこういうものだというのはそもそも意味が複数あるため覚えられず、文脈で判断しなければならないなど面倒そうなのに。
 『私は自分の人身(身体)への所有権として理解された自己所有権を「狭義の自己所有権」と呼び、自分の労働の産物とその代価としての財産の権利も含めて「広義の自己所有権」と呼ぶことにする。前者の発想は「私の体は私のものだ」、後者の発想は「私の労働の成果と対価は私のものだ」と表現することができる。』(P34)ああ、こういう考え方が、サンデルの本ででてきたように、所得税は正しいかどうかという議論になっていく基なわけだ。
 『リバタリアンに限らず多くの人々の用語法では、他人の人身や自由を侵害する自由はそもそも自由とは呼ばれない。そこでは自由は価値的に中立な概念ではない。殺人や強盗の「自由」は、一般的な行動の自由には含まれるが何らかの理由(たとえば「公共の福祉」)によって制約を受けるというものではなく、そもそも一般的自由の中に含まれていないのである。一般的自由は他者の自由と衝突するものではない。こう解釈すれば、一般的な行動の自由を基本的人権に含める、というよりもむしろ、一般的な行動の自由を基本的人権の中核的部分と考えるのは、正当である。』(P40-1)他者を害する行為はそもそも行動の自由に含まれないとの考えには目から鱗。自由はあらゆる紀律が存在しない無秩序な状態じゃないってことが知れてなにより、何しても自由という言葉を吐くとき、他者を害することまで含まれている気がして、今までは自由という言葉はあまり好きじゃなかったが、他者を害することは自由と呼ばれないということがわかって、ようやく自由ということばを純粋に良い言葉として捉えることができるようになるよ。
 『他者(政府含む)に対しての積極的な行為を要求する請求権は、自由権の中に含まれない。それは他人の自由を制約する権利だからである。/生存権や福祉給付への権利のような、いわゆる「社会権」が自由権とは別物であることは広く認められている。』(P42)こういう考えで生存権や福祉がないがしろにされかねないから、そこが個人的にリバタリアニズムを好きになれない、というか正直嫌いな最大の(唯一といっても良いほどの)理由だ。正直そこにセーフティネットがないと、今もたまにある、わざと犯罪を行い刑務所に入ることや生活保護を貰えず餓死する人が増えるんじゃない、そうでなかったら普通に犯罪に走るとか。というか、それが仮になかったとしたら僕も将来そうなる可能性が結構高いからな(笑、いごとじゃない)。
 やっぱり、最低賃金社会保障、福祉がある程度ないと、一国で実行しようとしても、子供が減って、先細りになる未来しか見えないなあ。特に日本では現在でも出生率がやばい状態だからね。アメリカのように移民を多く受け入れる構造ができていて、かつ先進国(本書の後の方で、先進国だけとの批判は間違いと述べられているが、僕だけじゃなく他にもそういう人がいるんだなあ、と頓珍漢な私的でなかったことがわかりホッとした(笑)まあ、その批判に対する、リバタリアニズムは普遍的に妥当する制度だ説明に納得はイマイチできないけど)であるならば、一定程度移民が常に流入してきてもそれが常態であるだろうから問題は少ないだろうし、先進国ならなりふり構わなければ1人でならそれなりの生活を送れるだろうしいいけど(ただしそれでも大きな病気や怪我を一切しなければと括弧がつくだろうか)、そうでないなら、考え方として知っておく以外の価値はないように思えるが。
 それに、リバタリアンでも物や金や情報は当然のことながら自由貿易の支持者だが、人(移民)となると消極的な論者がいるというのは、リバタリアニズムというある種極端な考え方をとっている人でさえ消極的な人もいるのか、まあ、リバタリアニズムの国家は社会福祉のレベルを低くしているのだから、そういった点では問題が少ないし、文化を変えるという点では、文化の保護は政府の役目ではないと切って捨てる、というのが主流の考え方のようだが。
 犯罪の前科の公表は駄目、などのプライヴァシーは、リバタリアニズムでは認められないというのは理由を聞いてみると納得だが、そうしたプライヴァシーを(自分に関する情報をコントロールする権利とすると、他の人の自由を制約することになるため)否定するとは思っていなかった、というか多くの、のでちょっと吃驚した。
 リバタリアンの立場では著作権特許権、商標は認めにくいというのは意外だ、他の人が利用するからといって、創造者による利用の自由を妨げるわけではない、それなのに人工に自由を制限しているから駄目ということのようだ。
 英国の哲学者ジョン・ハリスの「生存のくじ」『臓器移植の技術が大変発達したと仮定して、次のような強制的な臓器提供のくじの制度を提案する。――社会のメンバーのうち健康な人々はすべてくじを引く。彼らの中から無作為に選ばれた当選者から、健康な臓器を病人に移植する。そうすれば、一人の健康な人の擬制によって二人以上の病人が助かるから、現在よりもはるかにたくさんの人々が健康で長生きできるようになる。』(P47)ああ、サンデルの本にもでてきて、討論されていたものは、それからとってきたのか。
 あと、この本を読んでいて、ミステリー作家である笠井潔の名前がたびたび挙がっていることに驚いた。
 自己奴隷化を認めない理由で、バーネットが言っていることの要約が難しくてよくわかんないなあ。
 『論理学や政治哲学など規範的な議論においては、単に他人の議論の論理的矛盾や飛躍を指摘するにとどまらず、自分自身の説を積極的に主張しようとするならば、それ以上正当化できない直感にどこかで訴えかけざるをえない。たとえば「理由のない苦痛は避けるべきだ」とか「自分の体は(道徳的な意味でも)自分のものだ」という判断は、それ以上正当化できなくても、否定しがたい直感である(中略)規範的な議論で道徳的直感に訴えかけること自体は別に悪くない。問題は、その直感がどの程度説得力があるか、そしてまたそれが他の説得力ある直感と矛盾しないか、その帰結が受け入れられるかである。』(P74-5)今まで直感というと、なんだか議論とかでは無意味な子供っぽいものだと思い、そういう直感的なものでこれは好みとか嫌だとしか感じられないので、自分自身の程度の低さに恥ずかしく思っていたが、直感も重要だということをこうやって書かれると、なんとなく励まされるし、直感で判断するのもいいんじゃないと大っぴらに言える気分になるよ(笑)。
 バーネットの刑罰廃止論、というのは(リバタリアニズムとしても)極端なようだが、刑罰が優先され、そのことが被害者救済を阻害している、つまり刑罰を加害者に科すことで損害賠償を取り立てることが困難になるから、廃止すべきという意見は、あくまで被害者救済が優先して考えている姿勢には好感がわく。だからといって、刑罰廃止は、殺人犯や性犯罪者まで野に放たれるから行き過ぎな考えだとは思うけどさ。
 ラディカルなリバタリアンの中には、警察や裁判所も民間に任せたほうが、競争でサービスがよりよくなる、といっているが、それは流石にないわあ、『内戦下のような無秩序に陥るのではないか?喩えそこまでいかなくても、同一地域における複数のほう執行機関の併存は、極めて面倒な実際上の問題を生み出さないかといった疑問が生じる。』(P101)そうした恐れを持つ、というかそうなるだろうと考えるのは至極当然なのに、その恐れは誇張されており、現在の『単一法秩序の国家よりも平和で住みやすい場所になるだろう』(P102)というのは空想のようにしか思えないから、そうしたのを主張している、アナルコキャピタリストをはじめとするラディカルなリバタリアンの言説は現実というか人間だれもが持つ悪の部分を考慮しているのか怪しいと感じてしまったので、ちょっと信用できなくなったな。
 『人々が特定の社会的環境の中で暮らしている以上、その行動が社会から影響を受けるのは当然のことである。それどころかむしろ、リバタリアンは、権利侵害に至らないインフォーマルな社会的制約があるからこそ、政府が積極的に介入しなくても個人の規律や社会の秩序が保たれると考える傾向がある。道徳の実現は政府の任務ではなくて、社会を構成する人々の行為の結果である。他者から何も影響も受けずに個人が選択を行うことを「自律」と呼ぶならば、リバタリアニズムアは強制の欠如という意味での消極的自由を保護するものではあっても、その意味での自律を保護するものではない。』(P110)リバタリアンが社会制約を重要視しているということは知らなかった、ちょっとイメージと違ったので驚きだ。
 『政治思想におけるリバタリアニズムの大きな特徴の一つは、国家への人々の心情的・規範的同一化に徹底して反対するという個人主義的要素にある。リバタリアニズムの観点からすれば、国家や政府は諸個人の基本的権利を保護するといった道具的役割しか持たない。それ以上の価値を認めることは個人の自由だが、それを他人にまで強いるのは不当な介入である。(中略)ところが今の日本では、ナショナリズムに一見反対している論者達が戦後世代が戦争責任を引き受けることを主張するというねじれが見られる。しかしそれは日本人すべてに、戦前戦中戦後を通じた「日本人」という国民集団への人格的帰属を強いることになる。それこそ否定すべきナショナリズムの一類型である。』(P131-2)ナショナリズムを反対しながらそう主張するのは、むかつきますが、個人的にはやはり歴史を自分とは関係ないものとして切り離すというのは拒否感が、現在まで連続している日本の社会がやったことなんだから良い点も悪い点もしっかりと見つめ、社会の反省点を洗い出すためにも、まあ、何か過去のことで非難される程度は許容すべきかな、と思う。もちろん動じにそれに対して応酬することも含めてね
 地方選挙でも国政選挙でも税金を払っているなら、定住外国人参政権を持ち、逆に在外日本人にはその国の参政権を持つべきだが日本の参政権はもたないとする考えは、リバタリアンのものなのか。
 『ディープ・エコロジストはと呼ばれる一部のエコロジストは、個々の動物の具体的な苦痛には大きな関心を示さない。彼らが関心を持っているのは、地球全体の生態系であって、動物の個体は種の一員として意味をもつにすぎない。しかも彼らが尊重する生態系とは、現在か少し昔の生態系であ〔る〕(中略)私には生態系至上主義(ホーリズム)の全体論は、個々の人々の幸不幸ではなく「人類」とか「民族」とかいった、抽象的な集団の栄枯盛衰にだけ関心を持つ全体主義エコロジー上のヴァージョン、それも生態系の変化よりも安定を求める保守主義的ヴァージョンにすぎないように思われる』(P206)ああ、なるほど全体主義ね!と言葉にされたことで、ようやく合点がいったよ。それと共に、自国のことでなく「人類」のことを優先するのも(無論自国のことだけなのもそうだが)、また一つのヴァージョンということには納得がいくし。