それをお金で買いますか 市場主義の限界

内容(「BOOK」データベースより)

刑務所の独房を1晩82ドルで格上げ、インドの代理母は6250ドル、製薬会社で人間モルモットになると7500ドル。あらゆるものがお金で取引される行き過ぎた市場主義に、NHKハーバード白熱教室」のサンデル教授が鋭く切りこむ。「お金の論理」が私たちの生活にまで及んできた具体的なケースを通じて、お金では買えない道徳的・市民的「善」を問う。ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』に続く話題の書。


 豊富な実例をあげながら、市場主義を導入すべきでない、売りに出されるべきでない、売りに出されると市場主義が道徳を締め出す結果となるモノや場・サービスが存在し、それらに市場主義が導入されるべきではないものは何かについて考えている。相変わらずこの著者の本は、思想・哲学の話なのに非常に分かりやすく読みやすいので面白い。
 現在では市場主義が圧倒的な勝利を収め、多くのものがお金で買えるようになっている。しかし道徳的に市場でやりとりすることに多くの人が違和感を持つような分野もある。そこでどこまで市場域、金銭で大体できる分野を拡大できるか、そしてどこからそのモノの中心が道徳的なものであり、金銭での代替に歯止めをかけるべきものなのかを改めて考える。
 すべてが売り物となる社会となることを心配する理由は二つ、不平等に関わるからと腐敗をもたらすから。
 すべてが売り物となる社会では不平等さが増大していく。なぜなら、すべてのものが売り物になっていくほど、裕福であることあるいは裕福でないことが重要になり、金がないこと・不平等の痛みが増すからだ。
 また、腐敗とはなにかというと、公共心・道徳心の腐敗のことで、一定の分野では市場主義を採用して、そのものの価値を定めて報酬にすると、それをすることで名誉、義務感、利他心、公共心という理由が損なわれるため、かえって効率が下がる。
 例えば献血では、血に値段をつけると、公共心のためならばそうしたことをする人もしなくなる(価格をつけたことで自発的な献血者を追い払った)し、また寄付を集める活動では無償でなく、貰ってきた寄付の何%かにあたる額を報酬として別途(寄付でなく別の財源から)与えるとすると、無償で活動したグループよりも報酬インセンティブを提示されたグループが集めた寄付の額は少なかった。つまり無償のほうがより熱心に寄付を集める活動に励んだ。
 経済学者はよく、市場は取引の対象に影響を与えないというが、実際には市場はその足跡を残し、大切にすべき非市場的価値が市場価値に締め出されてしまうこともある。
 しかしその「大切にすべき価値」が何か、それは何故大切にすべきかという点では人々の意見はわかれる。『したがって、お金で買うことが許されるものと許されないものを決めるには、社会・市民生活のさまざまな領域で律すべき価値は何かを決めなければならない。この問題をいかに考え抜くかが、本書のテーマである。』(P23)
 市場主義が広範囲に浸透した現在でも、人間や投票権を売ることが許されない。なぜならそれは人間個々を金額で換算すべきでないという道徳心、あるいは公的な権利義務であるからだ。
 それらのように商品になることでそのものの非金銭的な価値を毀損、あるいは腐敗・堕落する性質のものがある。
 そうしたことを現在の市場勝利主義の時代に議論してこなかったことで、知らぬ間に市場経済(生産活動を統制するための有効な道具)を持つ状況から、市場社会(人間の営みのあらゆる側面に市場価値が浸透している生活様式)である状況に陥った。
 党派的対立を避けるため、市民が公の場に出るときに道徳的・精神的信条を棚上げすべきと主張しがちだが、それはよかれと思ってしたものでも『市場勝利主義と、市場の論理の温存につながった。』(P28)
 しかしそうして大切にすべき価値を考えなかった主張しなかった結果、そうした分野にまで市場主義が入り込み、高級な道徳・公共心を追い出し、わかりやすく便利だが低級な市場主義で扱う範囲を広げている。

 「第1章 行列に割り込む」余計にお金を支出することで行列にわりこむ。遊園地の特別な優待パスのように制度としてあるものから、並び屋のようにホームレスなど貧しい人に金を払い代わりに並ばせてチケットを取らせたり、ダフ屋のようにチケットを転売するものなどがその例としてあげられる。
 市場は行列に優先するという主張には、個人の自由の尊重と福祉・社会的効用の最大化という2タイプの論拠がある。
 前者はリバタリアン的な考え方で、売春や自身の臓器の売買を規制することに反対するのと同様に、その主張ではそれを規制することは同意した成人の選択を妨害するとしている。そして後者は功利主義的なもので、市場取引は売り手と買い手双方に同じような利益をもたらし、集団的福利・社会的効用を向上させるという主張である。そうすれば、その財を最も高く評価する人にそれを割り当てられるというものである。
 一方で先着順という行列の倫理を擁護する意見として、ダフ屋が彼らに払う高い金を持たない、ある劇・コンサートを見たいと強く願う人がそれを見るのを邪魔しているというものがある。
 それに対してダフ屋の擁護者は、最も高い価格を払う人が最もそれを高く評価していると主張したり、自由時間のある者をえこひいきすると不平をいうかもしれないが、高い金を払ってもその劇・コンサートに対する情熱を持っているとはいえない(著者はここで、野球で高額な席に坐る人ほど球場に遅く着て早く買えることが多いという例をあげている)。行列と市場、どちらがより正しく財を最も高く評価するものにチケットを配分するかは、偶然に大きく依存している。
 ローマ法皇のミサ、国立の自然公園のキャンプ場の予約権など、単なる利用の対象でも社会的効用の源でもない、自然のあるいは宗教の神聖な場に接する権利をダフ屋がオークションにかけるのは一種の冒涜であり、誤った方法での評価と多くの人が感じるだろう。
 市場の倫理や行列の倫理だけでなく、能力(大学の入試)、くじなどの運(陪審員)で物事を割りふるべき善もある。
 「第2章 インセンティブ」賄賂、受け手と贈り手双方に利益が出る自発的なものである。市場の倫理からいうと避難されるべきものではない。しかし非難されるのはそれが腐敗しているからである。
 腐敗とは、売りに出されるべきでは何か、有利な判決(裁判官への賄賂での)や政治的影響力(政治家への賄賂)を売買することで生じる。
 薬物中毒者やHIV患者の女性に、お金と引き換えに不妊手術を行わせているハリスの活動が強制あるいは贈収賄と非難される。強制とは金に困っているから仕方なくしているから事実上の強制と言う意味である。贈収賄とは、そうした生殖能力という売りに出されるべきではないものを売買しているからである。しかしそれは裁判官や政治家と違い、自分のものを売っているのだから不妊手術を選んでも悪いところはないというむきもあるが、外部の目的(薬物中毒の赤ん坊が増えない)のためにしているので贈収賄
 罰金を設定することで、それが料金のようなものとして扱われ、公共善・道徳心を損なう結果となる。例えばあるイスラエル保育所では、親がときどき子供を迎えるのが遅れるという問題を解消するために、遅れてきたら罰金をとることにしたら、それを料金のようにみなして迎えに来ることが遅くなるケースが増えた(道徳や名誉の問題が単なる料金の問題に堕落した)。
 また、カーボンオフセットでもそういうことがいえる。カーボンオフセットは普通の人が飛行機旅行、あるいは自動車の使用での大気汚染による損害を、一定額寄付することで他国での植林やクリーンエネルギー計画を支えるための費用に充てるもの。そうしたことは重要だけど、そうした寄付をすることで、義務を果たした(罪を相殺した)気になって、普段の生活・生活様式での改善をしないことにつながるおそれがある。そのためカーボンオフセットの批判者は、それを中世の罪びとが買った「免罪符」にたとえる。
 イヌイットが自分たちに狩猟することが許されているセイウチを撃つ権利をハンターに販売しているが、それは結果的に殺されるセイウチの数は変わらなくとも、取引の当事者双方に金銭的利益をもたらすものでも、彼らのコミュニティに特別に認められた例外の意味と目的が腐敗する。
 『金銭的インセンティブに頼るかどうかを決めるには、そのインセンティブが、守に値する姿勢や規制を蝕むかどうかを問う必要がある。この問いに答えるには、市場の論理は道徳の論理にならざるを得ない。要するに、経済学者は「道徳を売買」しなければならないのである。』(P135)
 「第3章 いかにして市場は道徳を締め出すか」ある賞(ノーベル賞や野球のMVP)は名誉をあらわす善なので、お金に買うならば価値は消えてしまうお金で買えないものがある。一方で腎臓や子供など、お金で買えるがそうすべきでないものがある。前者の善はお金で買うと消えるが、後者の善(腎臓はお金を使って買っても機能しなくなるわけではない)はお金を使っても消えないが堕落する。
 核廃棄物処理場を作ることを受け入れると回答が51%、それに加えて毎年補償金を支払うことを申し出たときに、受け入れると回答したのが25%だった。市民的な公共心で受け入れると考えていた人も、補償金の話が出ると賄賂のように感じられてむしろ反対に動く。市場的インセンティブと道徳的インセンティブは累積しない。前者は後者を締め出す。
 そして寄付を集める活動でも無償でなく、貰ってきた寄付の何%かにあたる額を報酬として別途(寄付でなく別の財源から)与えるとすると、無償で活動したグループよりも報酬インセンティブを提示されたグループが集めた寄付の額は少なかった。つまり無償のほうがより熱心に寄付を集める活動に励んだ。金銭的インセンティブ1%と10%だと後者の方が集めた寄付の額は多いが、10%よりも無償のが多い。このことからも二つのインセンティブが累積しないことがわかる。
 あるいは貧しい人のために割引料金で法律相談に乗ってくれと弁護士団体にいったら断られたが、無料相談をしてくれと言うと受け入れてくれたというも、そうした例としてあげられる。
 利他心、寛容、連帯、市民精神を使えば使うほど磨り減るから使い時を考え節約すべきという信念を持つ経済学者も多い。しかし実際のところは逆で、それらの美徳ははむしろ鍛えなければ衰弱する代物である。
 「第4章 生と死を扱う市場」従業員に生命保険をかけて、会社が受取人になっているところがままあるというのはおぞましい。かつては役員などに限っていたが、現在は一般従業員にまで広がる。死亡による損害の補填するためなどという弁明をしているが、同時に会社は社員の死亡についてインセンティブをもつことになる。これはブラック企業の蔓延る日本では死んでも、そうすることが許されて欲しくない制度。
 バイアティカル事業、末期患者の保険証書を死亡時に受け取る額の5割とかで買取る、その人は死ぬ前に一定額が入ってくることで楽になれる。一方で、投資家は死亡するのが早いほど儲かる。現実的な害ではないが、ある人々が早く死ぬほうにかけることで利益を得るというのは、道徳的な腐食作用をもたらす。
 そのバイアティカルは現在では、サブプライムのように複数の病気の患者の保険証書を組み合わせて、ある病気の特効薬が出来たときに大きな損をしないような仕組みもできている。それによって死亡債の匿名性、抽象性を持つようになったが、しかしそれで道徳的腐食が本当に起きないのだろうか。
 「第5章 命名権」野球である記録を達成したときボールなどが市場で売買される商品とみなされると、そうしたボールを選手に返すことが、『良識ある何気ない振る舞いではなくなる。寛容な英雄的行為か、浪費家の愚行かのどちらかになってしまうのだ。』(P242)
 最後の4割打者ピート・ローズ、自身のサインをサイトで販売しており、299ドル+手数料・送料で「野球賭博をしてすいません」と書かれたサインボールを、500ドル+手数料・送料で球界からの永久追放を通告する文章のコピーにサインしたものを送ってくれるというのは、笑ってしまう。
 野球が市場主義にどっぷりつかったことで、企業の命名権を与えることで多くのものを金に替えている。球場の名前などは日本でも行われているが、他にもダイヤモンド・バックスは球場の命名権(「バンクワン」・ボールパークへ)と共にホームランに「バンクワン」・プラスト(プラスト=ホームラン)とアナウンサーは味方のホームランにそうして企業名をつけることが義務付けられる契約をした。他にもニューヨーク・ライフと言う生命保険会社はメジャー10球団と、実況アナウンサーはホームベースの滑り込みの際に実況アナウンサーは「セーフです。安全と安心。ニューヨーク・ライフ」といわなければならないという契約を結んだ。
 そうやったことで多くの収入を得られるようになったが、スタジアムが立場を問わず誰もが地元愛と市民の誇りを共有する象徴的施設の性格を失い、公共性が失われていった。そうしたものの破壊の最たるものが、豪華なスカイボックスの増加にある。その席は、ガラスで特権階級と庶民との間で文字通り空間が隔てられれた。
 どこにでも広告を入れる、何も悪くないという人もいる。しかしそうした自由放任論には、強制と不公正に関する異論、腐敗と堕落に関する異論の二つの異論を招く。前者はローンが払えなくなり自宅にけばけばしい広告を描く、子供の薬のため額に広告の刺青を入れるというのは完全な自由意志でないというもので。
 命名権・広告で堕落は二つのレベルで進む。例えば額に広告の刺青を入れるというのは、完全な自由意志で行われても、自らを貶める行為である。また実際にあった例だが養育費のために子供の命名権を売ろうとした両親は、たとえ子供はそもそも自分で名前を選べないものだといっても、広告のついた例えばペプシ・ピーターソン、ウォルマート・ウィルソンで生きていくのは、たとえ本人が同意したとしても人格を貶めることである。……これでいうと、日本の子供におかしな名前付ける最近の傾向はどういう評価になるのだろうな。

 締め『つまり、結局のところ、市場の問題は、実はほかの人々とともにどう生きることを望むかという問題なのだ。われわれが望むのは、なんでも売り物にされる社会だろうか。それとも、市場では評価されずお金では変えない道徳的・市民的善というものがあるのだろうか。』(P292)

 訳者あとがき、市場化は社会における幸福領を増大するという考えはそもそも功利主義的価値観を前提としており、経済学者のよくいう市場は中立であるというのは間違い。
 ややもすると時代遅れにも感じられるような議論ではあるが、実例を豊富に示し、その議論に説得力を与えている。