遺体 震災、津波のはてに


遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)

遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
あの日、3月11日。三陸の港町釜石は海の底に沈んだ。安置所に運び込まれる多くの遺体。遺された者たちは懸命に身元確認作業にのぞむ。幼い我が子が眼前で津波にのまれた母親。冷たくなった友人…。悲しみの底に引きずり込まれそうになりながらも、犠牲者を家族のもとへ帰したい一心で現実を直視し、死者の尊厳を守り抜く。知られざる震災の真実を描いた渾身のルポルタージュ

 読んでいて涙があふれてきてしょうがなかった。描かれる出来事の悲惨さに何箇所も涙がこらえられなかった場面があったし、読んだあとに喉が少し痛くなってしまった。
 街の半分が津波の被害にあい、もう半分は津波が来なかった地域と同じ街で被害の有無がくっきりとわれた釜石市を取材しているノンフィクション。釜石という一つの被害の有無が地域内でわかれた場所に絞って、それも死体安置所をメインとして書かれているので、「取材を終えて」でも『同じ市内に暮らす人々が隣人たちの遺体を発見し、運び、調べ、保管することになった。私はそこにこそ、震災によって故郷が死骸だらけとなったという事実を背負って生きていこうとする人間の姿があるのではないかと考えた。』(P308)と書いてあるように、そのあらゆる意味での喪失を強く感じることができ、そしてこれこそが東日本大震災という災害によって生まれた悲劇のもっともコアな部分なのだと思った。
 何人かの視点となる人物の話を書くことで、遺体にまつわるエピソード、釜石市での隣人の死が多面的に描き出されている。
 他の本は3.11を生き残った人の視点で書かれているから災害の大きさとか、津波で流された人を見たということはわかっても、この本を読んでいると感じるどうしようもない喪失感とか悲しみはいまいち感じられなかった。しかしこの本を読んで3.11によって生じた東北沿岸部の悲しみ、喪失、絶望の一端を知ることができた。そして3.11の本質は、当時の被災者の心境は、このどうしようもない絶望と悲しみなのだということも感じ取ることができた。そして読んでいるだけで、肉親・友人とわずかな海岸線との距離の違いで生死がくっきりとわかれてしまったということの恐ろしさへの理解が深まった気がする。
 徹底してタイトルどおり、同じ市に住む隣人の、友人の、肉親の「遺体」と向き合ったエピソードが、助からなかった物語が積み重ねられているので、被害の甚大さがそうしたエピソードが重ねられることでよりわかるし、そしてそうしたエピソードを読むことで、被災地の人たちがどれだけの失い、どれだけ痛みを負ったのかをより正しく知ることができる。
 他の本では助かった人間の話で、震災後に困った話が主に書かれていたので、津波のものすごさが書かれていても、そうした生者の視点から書かれているのと、この本のように丸々一冊津波によって遺体(死者)がメインで扱われているものでは津波の恐ろしさについての感じ方はやはり変わってくる。
 以前葬儀社で働いていた千葉は遺体安置所でボランティアとして働き、故人の家族に声をかけて気持ちを和らげようとしていたというのは、そういう普通の死に際しては当たり前かもしれないことでも、こうした非常時で死がありふれてしまって、数多くの遺体があるなかでもできる限り、通常のそうした故人の家族へのケアをしてやりたいという思いやり、そして遺体にも平時に葬儀で扱う遺体と同じく声をかけて人間らしい尊厳を取り戻してやりたいという姿勢を見ていると心が温かくなる。
 遺体の歯を見る歯科医の先生もその土地の人間だから、津波の被害者の姿を見ているときに遺体の中に何年も、何十年も親交のあった友人・知人や患者などの姿を多く見て、その度にぐっと感情をこらえて仕事をしているが、その胸中でどんどんと色々なものがぼろぼろと零れ落ちていくのが見えるようで、そんな描写を読んでいるだけでもとても悲しくなってしまう。その見知った隣人を、遺体で見てその死を知るという気持ちは察するにあまりある。
 屋根に避難したが家を流された女性の声だけ聞こえて会話できたのだが、どこにいるかもわからず自分たちが危険な水の仲に入ったら自分たちが死んでしまうため、暗闇の中水が引いていくのとともに「助けてください」という声が徐々に遠ざかっていくのを聞いているだけしかできなかったというのは泣きたいほどに人間の無力さを思い知らされるエピソードだ。
 災害後に仕事・ボランティアとして死者、遺体と向き合っている人たちが、自分たちでできることをしようとただ仕事に徹していたのに、それがふとしたことで堰きとめていたものが崩壊して、涙があふれているようなシーンでは読んでいて思わず目頭が熱くなってしまう。
 同じ遺体を見て、別々の人があの人だとその人物を思い出したり、ある視点で娘の死を強く悲しんでずっと娘のそばにいる母親が、別の視点によってその何時間もあとでも娘の遺体のそばからずっと離れていないことがわかったり、同じ遺体について別々の視点で書かれたり、時間が経過したあとに再度(あるいは時間的にほとんど連続して)書かれたりすることで、その故人やエピソードが1シーンでのみ書かれるよりもずっと重みを持って、数時間前、数日前まで生きていた隣人だという事実を強く刻み付けられる。そうした縁の絡み合いを見ると死者と生者の差異は本当に場所の少しの差によるもので、その少しの違いが決定的にあらゆるものを分断してしまったことを理解させられ、恐ろしさと悲しさを改めて感じる。そうしたことが書かれる、よりいっそう遺体が隣人であるという理解がわき、そうして少しずつディティールまでわかっていくことで3.11の津波被害の悲惨さがよりいっそう鮮明に見えてくる。そしてわかってくるごとに目頭が熱くなり、しゃくりあげそうになる。
 死んだ妻に起きろ起きろといっている男性や、恩人の遺体を見て今までこらえていたものが決壊する女性を見ると、悲しみで喉が詰まってしまう。
 あとがきで、節ごとに視点が変わるこの本の中で視点となって書かれていた幾人かの主要な人物の3年後の後日譚が少し書かれているのは嬉しい。そして生後数十日で死んだ赤ん坊と、その両親を遺体安置所で励ました千葉さんが著者を介して改めて出会い涙し、そしてその死んだ子供の一歳の誕生日に千葉さんが線香を上げにいったという話には、目が潤んでしまう。