守城の人

守城の人―明治人柴五郎大将の生涯 (光人社NF文庫)

守城の人―明治人柴五郎大将の生涯 (光人社NF文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

その生涯に二度「敗戦」の悲哀を味わった風雲児柴五郎―十歳のとき会津落城を、そして八十八歳のとき陸軍の最長老として大日本帝国の敗北を…。政治小説「佳人の奇遇」で文名を謳われた柴四朗を兄に持ち、北京篭城戦でその名を世界にとどろかせ、賊軍の出ながら大将にまで昇りつめた波瀾万丈の足跡を辿る。


 「ある明治人の記録」を読んでから、柴五郎についてもっと知りたかったのでこの本を読んだ。久々にこんな厚さの本を読んだのと、前半部は「ある明治人の記録」と扱っている挿話は共通しているため、読むペースが上がらなかったが、西南戦争あたりからはかなりのペースで読みすすめることができた。ただ前半部も「ある明治人の記録」は本人の自伝が抜粋して掲載されているため昔の文章なので、こちらの方が読みやすい。あまり余計な感情を入れずに、文章が書き連ねられているため読みやすい。約750ページといっても、幼少期から第二次大戦の終戦後に死ぬまでの90年近い人生を扱っているため、それぞれのエピソードがぎゅっと凝縮されて、冗長さがないので、それぞれのエピソードに費やされるページ数はあまり多くはないのだが、凝縮されている分濃くて面白く、印象に残るエピソードも数多い。特に本書の題名に「守城の人」とつけるもととなった、北京籠城戦でのエピソードは特に面白い。
 鳥羽伏見での東軍の敗北の要因のひとつとして、指揮系統の不在があった。会津が東軍の最高司令官に援軍を要請したときに、自分でも後方の幕軍を動かせないといっていたというのはちょっと驚くなあ。
 会津藩では一時的でも戦時景気に沸き、「都見たくば此処までござれ/今に会津が江戸になる」なんて会津の人が唱い囃していたとは知らなかった。
 藩士の忠誠度は禄高に比例していたというのは納得できる反面、ちょっと意外でもある。貧乏でも忠誠のみは人一倍で、禄高は高いやつはその地位に安住して忠をわすれているみたいなイメージを持っていたのだが、それは時代小説とか創作を見て勝手に抱いていたイメージなのか。
 会津斗南藩になって、貧窮にあえぐ藩士たちの姿を見るのはつらいなあ。当時政務を一人統括していた山川が、豆腐屋と特約を結び、おからをほとんど買い取り主食としていることを「権力を嵩にきた贅沢な振る舞いは怪しからぬ」と大勢の藩士たちが彼を弾劾したことからも当時の会津藩士たちの貧窮振りが察せられる。
 五郎は勉強嫌い、書物嫌いであったが、長兄太一郎は藩のために獄に繋がれており、人柄と学問も兄弟のなかで傑出していて柴家で家名を挙げるのは彼だろうといわれた五三郎の周旋のかいもあって、藩政府から選抜され青森県給仕として派遣されることとなり、それが彼の人生の転機となった。五三郎は、かつてそれほどまでに評価されていたが、結局老父への効用を第一にして下級官吏のまま逝去した。けど、91歳でなくなったのだから大往生だ。
 明治初年に横浜で天皇に外国公使らが謁見するという式典があったときに、五郎はそれを見ていたが、式が終わると群衆は玉座に殺到し、叩き壊され破片となり、下に敷かれていたじゅうたんも引きちぎられ、それらの一片を当時の民衆は「護符」として大切に持ち帰ったというのは、当時そういうことが行われたということは知らなかった(「明治天皇」にあった気もするが、覚えていない〔苦笑〕)からちょっとものめずらしい光景だ。
 東京に出てきて職も何もなく、ただ食客をせざるを得なかったときに勉強しておけばという悔やみはじめ、その後青森県の給仕時代に世話になった野田に陸軍幼年学校が生徒の募集するということを知らされて、その話に飛びつき短い期間ながら今までにないくらいの真剣に勉強をして、受験をして、試験問題はさほど難しい問題でなかったということもあり合格する。しかしそんなに難しくなかったということだが、翌年に海軍兵学校に合格し、海軍大将・首相となった斎藤実が不合格なのだから、よくわからんな。そして幼年学校に入学して以降の五郎は寸暇を惜しんで熱心に勉強するようになり、彼が入学した当時の授業は全部フランス語だということもあり、そこでフランス語を習熟する。
 かつて博徒であり、明治になってから所帯を持って一時腰を落ち着けるも、その生活が性に合わずまた博徒となった兵蔵は、会津での戦乱時に長兄太一郎の従者としてともに出兵して、彼に忠義を捧げていた。兵蔵は、後年の明治になってからも太一郎を慕っていたし、五郎のことも親しく思って、しばしば五郎に会いに幼年学校に着てたとえあえなくても彼の姿をしばらく見て満足して帰っていったというように、太一郎に柴家に仕えた期間は短かったが、本当に柴家に大きな愛情を抱いていたことがわかる。本当に彼はいい人だな。こうして時代が変わっても変わらぬ主従の絆という話は好きなんだ。
 竹橋事件は近衛部隊が起こした騒動だから、今まで士族が起こした騒動だと思っていたが、そうではなく下級尉官、下士、兵卒の地位にいた人間が西南戦争での恩賞が薄い(上の人間には恩賞が厚かったのに、下にはきわめて薄く、非常に格差があった)ことに反発して起こした騒動で、徴兵された人間とかがその騒動に参加した主な層で、そのことを示すように首謀者に兵卒クラスもいた。
 石光真清と柴五郎はどんな縁かといえば、五郎がかつて世話になった野田の甥で、彼が幼年学校に受験したときに柴五郎が世話をしたというのがその縁のはじまりのようだ。
 明治十年代の陸軍は規模が小さかったこともあり、互いの顔や技術を知る機会も多かったので、長州閥の力は後年に比べれば弱く、五郎は陸軍において出身ゆえに差別待遇されたことはなかったという。
 明治前半の朝鮮では、一般人に茶を飲む風習がなかったというのはちょっと意外だな。でも、かの国の国土の緯度を考えたら、その国土では茶の生育は難しそうだし、一般民衆が茶を嗜めるほどの量を輸入するような経済力があったわけでもないし、そもそも清や日本と同じく少し前までは鎖国していたわけだし、そんなにおかしいことでもないのかな。
 米西戦争のときのアメリカ陸軍はとても当時の先進国の水準で言うと、軍隊と呼べる代物ではなかったというのは、ちょっとおどろいた。しかし、その情報は「坂の上の雲」でもあったかもしれないなあ、忘れていたのか初見なのか、どっちなのかについてはなはだ自信に欠ける。
 北京籠城戦では、わずか数百の連合軍(といっても下から北京に滞在している公使館付きの武官)とその地に滞在していた連合軍国籍の義勇軍、また義和団から迫害されていたのを保護したキリスト教徒たち数千(官軍が明確に敵に回る前の籠城初期に救出)が義和団&中国軍相手に2ヶ月近くにわたって籠城し続け、そのことを聞いた主力の連合軍が北京へ来て、彼らを解放するまで、なんとか守りきれた。五郎はその指揮の優秀さによって、籠城下の連合軍の中にあってその頭抜けた指揮能力によって存在感を強め、連合軍のトップではないが、中心にいて大きな役割を果たした。そして連合軍の中でアジア人でありながら、危地にあって籠城している人々の間で、そして命がかかっているから、その将兵の能力に対する観察眼が厳しくなっている中で、高い信頼を獲得した。その時に少数の連合軍の総指揮官として活躍したマグドナルド公使が、後に日英同盟を締結するための大きな力となった。彼の下で、ある意味北京籠城で見事な指揮を見せた柴と勇敢さを発揮した日本人が日英同盟を組む大きな機縁となったのであろう。意図せずに、政治的に大きなことをやりとげたのね、柴中佐(当時)は。
 全くの想定外の清国宮廷の判断により、突如として周囲が敵だらけとなった公使館が密集している地域に籠城することを強いられ、少勢で多数を相手に奮戦してジリ貧で、共死共生といった状況下に置かれた英国、フランス、日本、イタリア、米国、ドイツの公使館員や公使館付きの武官が団結して、それぞれの陣営に援軍に行ったり、指揮下に入ったりするというほかでは見られない光景を展開しながら、援軍を待つ。この小さい多国籍軍は、なんだかドリームタッグじみていて読んでいてわくわくするし、切迫した状況の中で純粋に能力によって判断されて、日本人たちが面目を施すというのは読んでいて爽快だし、嬉しくなってしまう。
 イギリス義勇兵のシンプソンが、柴とその部隊(日本軍)と会って「ぼくはここではいめて組織されている集団を見た。/この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下たちを組織化し、さらに大勢の教民を召集して、前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをすべてやった。/ぼくは、自分が既にこの小男に傾倒していることを感じる。ぼくはまもなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになっているだろう。」(P565)と思ったというのは、そう思わせる柴はすごいが、それよりも、この文章は美しくて好きだ。
 この時代、この場所での日本人は勇敢で、麻酔なしに手術をしても口に防止を突っ込んで呻き声ひとつもらさず、銃弾が頭部を掠めても手ぬぐいを包帯代わりにして持ち場を離れなかった。また、病院に運ばれても物静かで、他の国の人は沈鬱になりがちなところ、彼らは「沈鬱な表情ひとつ見せず、むしろ陽気におどけて他人を笑わせようとした。」仕官も、農民・職人あがりの兵も義勇兵もそうした勇敢で沈着で陽気という性質があったというのだから、幕末の残光だと著者は説明しているが、第二次大戦前後から現在までそういった国民的性質は見えないので、それ以後の日本人とは比べ物にならないほど美しい人たちだという思う。これは120年くらい前のことだが国民の性質とは変わらないようでいて、案外と変わるものだね。まあ、昔から変わらないという言説は、現在に当てはまるもののみを抽出して変わらないと言い募っているだけともいえるけど。
 天津において援軍である連合軍が中国軍に勝利したことで、相手の攻撃もいったん停止して、そのおかげで包囲されている状況ではあるが、いったん平穏に戻り、その後再度攻撃されるも連合軍が北京を占領して、彼らを救出する。
 日本軍は、というか当時の日本は、そして日本人は、新興国で弱国でもあるから、外国に対して規範を遵守している、自分たちも文明国であるという気負いがあったから略奪などをしなかった。柴中佐が幼少期の会津で略奪を受けた経験も、占領下の市外への施策や方針に影響しているだろう。そのため、日本が受け持った北京の市外区はいち早く治安を回復した。そして、そうした謙虚かつ生真面目なくらい規範的な行動で日本は他国からも評価され、そんなこともその後、日英同盟を結ぶのに大きく貢献しただろうし、それが日本にとって最大の収穫だったであろう。
 あとがきに「ある明治人の記録」には潤色があると書いてあったが、「ある明治人の記録」には敗戦を見通していたような書き方をしていたと思うが、実際には五郎は娘婿から悲観的な見通しを聞いてはいたものの、晩年である戦時中はに憂国老人で戦争をかなり最後まで長期戦となれば英米もその出血を耐え切れないだろうから、日本が負けることはないと思っていたというのがそれかな?