中世ヨーロッパの城の生活

中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)

中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

牢固とまた堂々と風格を漂わせ、聳える城。西欧中世、要塞のような城が陸続と建造されていった。城作りはいついかなる理由で始まったのだろうか。城の内外ではどのような生活が営まれていたのだろうか。ウェールズ東南端の古城チェプストー城を例に挙げ、年代記、裁判記録、家計簿など豊富な資料を駆使し、中世の人々の生活実態と「中世」の全体像を描き出す。


 これで講談社学術文庫のこの著者達の中世欧州を書いた本も読み終えたかな。
 訳者あとがきにも『チェプストーしろとその城主となった四家族の盛衰を軸に、十一世紀から十三世紀にかけて人々がどのような暮らしを営んでいたかをさまざまな角度から描き出している。』(P292)と、「人々がどのような暮らしを営んでいたかを」と書いてあるように、城での生活、城内部の話だけではなく、城に住んでいた領主(城主)の生活という感じで、中世の貴族女性や騎士についてだったり、あるいは狩猟だったり、その領地・農民との関わり、国王と貴族との関係などについて結構な分量が書かれていて、城の内部の話というよりも広く中世についてフォローしているといった部分が半分くらいという印象で、もっと城オンリーな内容だと思っていたからちょっと予想と違ったな。まあ、別にそれはそれで面白いからいいんだけれども。
 まあ、4家族の話で、カタカナだから、いまいち名前覚えられず、その話が軸になっていたのかと最後のその文章で、そんな風な今更なことを思ってしまったり(苦笑)。
 征服王ウィリアムが短期間にイングランドを征服できたのは、当時のイングランドには城が少なかったことがそうなった要因の一つ。
 城の発展が最終段階に入ったのは、13世紀末と案外早いんだな。それ以後は城と言うよりもっと巨大な要塞(星型要塞)とかになるのかな。日本の城がそうした段階に入るのは、戦国時代だから16世紀後半くらいか。
 中世、床をイグサで覆うのが一般的で、中世後期になるとバジル、バルサム、カモミール、キク、バラ、ミント、スミレなどのハーブ類も(イグサに混ぜて?)用いられるようになってくる。しかしイグサの下に、ビールや油のしみ、骨や唾、イヌ・ネコの糞などがあったというのは現代から見ると不潔すぎてうえっとなるな。
 初期の城では城主家族の寝室もなく、大広間の奥にカーテンを吊るすか衝立の仕切りを立てるなど、大広間を仕切ったスペースで休んでいた。
 『間仕切りで仕切られた部分や厨房の通路は別として、中世の城の居住区には内廊下というものがなかった。部屋と部屋はつながっていて、上下階の部屋は場所を取らない螺旋階段で行き来できるようになっていた。』(P89-90)廊下なかったとはちょっと意外だな。
 当時はトイレットペーパー代わりとして干草が利用された。
 結婚前に父が死亡した娘は、亡き父の主君の被後見人となった。当時は後見人になると、被後見人が結婚するまでは、その荘園から上がる収入を懐に収めることになっていた。そのため、よくあったことではないかもしれないが、後見人の権利が売買されるなんてこともあったようだ。
 寡婦になったら夫の不動産の約3分の1にあたる寡婦産権が認められていて、跡継ぎが譲渡に応じない場合は国王に訴えでることができた。
 当時はワインの年代や等級に関心を寄せられることがなかったため金持ちの食卓、宮廷にあっても粗悪なひどい味のワイン(あるいはエール)が並ぶことも多かった。
 鷹匠、馴致している猛禽類に獲物を覚えさせるのに、『ツルの喉頭を切り、そこに息を吹き入れて、シロハヤブサにツルの鳴き声を覚えさせ』(P171)るなどということをしていた。
 領主だけでなく、高位聖職者も専用の猟場を持っていた。
 伯が大司教の猟犬を奪って破門になるとか、当時の猟がどれだけ重要なものかはわからないけど、案外破門って軽かったりする。いまいち、当時の破門の重さがよくわからないや。
 『森番になるのはたいてい騎士や自由土地保有者層の息子だった』(P186)というのは、森番という語感からなんとなくもっと下の階級のイメージがあったので意外だが、貴族とかでも取り締まれるにはやはり相応以上の階級の出であることが必要だったのかな。まあ、森番は貴族や農民を強請って金銭を得たり、また王領森で勝手に放牧したり、守らなければならない鹿などを私に狩猟したりと横暴な振る舞いをしていたから、農民にも貴族にも酷く評判の悪い存在だったようだが。
 当時農村の家の壁、『カシやヤナギの細枝を編み合わせた下壁に、切り藁やウシの毛や糞を混ぜた粘土を塗りこんだ。』(P194)アフリカとかで牛糞で壁を作っているというところはあるとテレビでみかけたことがあったけど、それはアフリカ限定でなくヨーロッパでもかつては行われていたことだったんだ。案外そうした利用法って普遍的なのかな。
 『自由と土地のどちらかを選べるとしたら、当時の村人なら誰しも土地を選んだであろう。事実、土地こそが真の自由を意味したのだ。』(P203)それは、当然といえば当然か。
 『隣人同士が互いに良く知り合っている共同体では、被告が無実だと誓って断言する人が一定の人数だけいれば、被告は自由の身になったのである。』(P208)荘園裁判所で、申し立てが行われて被告となっても、一定数無罪と誓える人間がいれば無罪となった。まあ、当時は現在のように一つの事件に長く取り掛かり、詳細に調べられるほど余裕があったとは思わないし、妥当な解決方法だろうね。今とは大分様相を異にしていても。
 異教徒と戦うためにその地に向かった騎士でも、雇い主を選ぶ余裕なかったから、相手(異教徒側)の傭兵となるようなこともままあったというのは、へえ。
 13世紀の武芸試合、実戦形式(敵・味方にわかれて乱戦)で行われ、そこで相手を捕虜に取ると、試合終了後身代金交渉(概ね、馬と武具の値段の金銭となった)をして、その金を手に入れることができた。一対一の騎馬試合は14世紀後半になるまで一般的ではなかったみたい。
 また、紋章学の発達は、武芸試合によるところが大きかった。
 20世紀の薄い高性能砲弾は、15世紀の石の砲丸ほど石造り城壁を傷つけられなかったため、陣地や避難所として度々使われていたというのは知らなかった。