戦争における「人殺し」の心理学

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

本来、人間には、同類を殺すことには強烈な抵抗感がある。それを、兵士として、人間を殺す場としての戦場に送りだすとはどういうことなのか。どのように、殺人に慣れされていくことができるのか。そのためにはいかなる心身の訓練が必要になるのか。心理学者にして歴史学者、そして軍人でもあった著者が、戦場というリアルな現場の視線から人間の暗部をえぐり、兵士の立場から答える。米国ウエスト・ポイント陸軍士官学校や同空軍軍士官学校の教科書として使用されている戦慄の研究書。

 第二次大戦中の戦闘で、接近戦をしたアメリカの歩兵中隊を面接調査して調べた結果、そのうち実際に敵に発砲したのは15〜20%でしかないことがわかった。
 発砲しなかった兵士は逃げたり隠れたりしていたわけでなく、多くの場合はそれ以外の危険な仕事(戦友の救出、武器弾薬を運ぶ、伝令を勤めるといったもの)を進んで行っている。
 それはやはり戦争であっても実際に人を殺すということは難しいことを示している。しかし、それは当然のことだし「私はどんなことがあっても人を殺すことはできない」というのは『適切な条件付けと適切な環境を整えればほとんど例外なくだれでも人が殺せるようになるし、また実際に殺すものだ』(P45)から間違っている。しかし逆に「戦争になれば誰だった人を殺すさ。相手が自分を殺そうとしていれば」というのも、第二次大戦中に実際に人に向かって発砲した歩兵が15〜20%というこの数字は、そう簡単にわりきれるような話ではないことを明らかにしている。
 そしてその比率はアメリカに限らず、第二次世界大戦を戦った他のあらゆる軍にもあてはまり、同じくらいの非発砲者がいただろう。なぜなら、『日本軍やドイツ軍のほうが、進んで殺そうとする者の割合が高かったとすれば、実際に発砲された銃弾の数量はアメリカ軍の三倍から五倍にはなったはずである。だが、そうではなかった。』(P62)
 『人は恐怖に襲われると、前脳で考える(つまり人間の心で考える)のをやめてしまい、文字通り中脳(獣と本質的に変わらない部分)で考えるようになる。そして獣の心の中では、いちばん声の大きな者、あるいは自分を大きく見せた者が勝者なのである。』(P50)
 火薬が戦場を制覇したのは、殺傷力だけではなく、そうした恐怖を呼び起こす威嚇効果が大きい。そしてそうした銃を撃つ行為は『生物の本章に深く根ざした欲求、つまり敵を威嚇したいという欲求を満足させる。と言うよりむしろなるべく危害を与えなくないという欲求を満たす。』(P52)そのため、射程圏に入っていない相手だったり空に向かって無駄うちする例が『歴史上一貫して見られる』(P52)。
 ナポレオン戦争ナポレオン戦争のころは、一つの連隊(200〜1000)名が、掩蔽のない30ヤード(27.432メートル)しかはなれていない敵連隊にマスケット銃を発砲しても、平均して一分に1〜2人しか殺せなかった。先塡式マスケット銃、射手の腕や銃の状態によるが1分に1〜5発撃て、『この時代の平均的射程距離なら、ゆうに五〇パーセントを超す命中率を期待できたのだから、殺傷数は一分あたり一〇〇人単位になるはず』(P55)だが、多くのものが実際に顔が見える距離で人を売って殺すことに抵抗を覚えて、敵の頭上などあらぬ方向を撃つため、そのように殺傷数が少なかった。しかし大砲射撃の場合は距離が離れているため、殺傷率が高く50%に届くこともあり、『今世紀の戦争では、戦死者の大半は常に砲撃によるものだった。』(P55)
 アレクサンダー大王、征服の全過程で失った兵はたったの700人。相手が失った兵は多かったが、いちばん被害が生まれるのは敗走時。『戦闘の歴史を見ると、こちらに背を向けた敵を追跡しているときこそ、いちばん殺人が起こりやすいときである。』(P139)動物、例えば犬に追跡本能があるのと『動揺に、人間にも追跡本能があるのではないだろうか。だから逃げる敵なら殺せるのである。』(P224)背後からの殺人は、敵の顔・表情が見えないため殺しやすくなる。そのため、殺す者に目隠ししたりフードをかぶせるのも同様に顔を見えなくすることで(心理的距離をもたらすため)、殺人を行いやすくするし、死刑執行人の精神の健康を守るのに役立つ。
 そのように殺すのではなく、威嚇したいという人間の性向は、現代的な訓練や条件付けの技術である程度克服できる。そのため近代的な訓練と条件付けをほどこされた近代敵軍とろくに訓練されていないゲリラ部隊とが交戦したとき、訓練不十分なゲリラ側は本能的に威嚇行動をとる傾向があるため、殺傷率の差は信じられないほど大きくなる。
 例えば第二次大戦当時と変わらぬ訓練法のアルゼンチン軍と現代的な条件付けなされたイギリス軍との戦いであるフォークランド紛争アメリカのパナマ侵攻などは信じられないほどの殺傷率の差が生まれた。そしてアフリカのローデシア(現・ジンバブエ)での白人たちの政府軍とソ連の支援を受けたゲリラとの戦いでは装備に明確な差がなかったが、そうした訓練のため、圧倒的に殺傷率(終始ゲリラの8倍で、コマンド部隊の場合35〜50倍)が違った。
 進んで発砲する兵士のために他の者(非発砲者)が銃の装填やその他雑用を引き受けるというのは、ごく一般的みらられる現象。黒色火薬の時代の非発砲者の選択肢には、敵の頭上高く発砲(威嚇)、前進せず脱落(一種の逃避)、望んで発砲するものの手助け(消極的闘争)という広く受け入れられた(見られた)選択肢のほかに、動作や装填だけして発砲している振りをする偽装発砲もあった。
 『第二次大戦の銃手たちと同じく、ライフルやマスケット武装していたそれ以前の戦争の兵士たちも、心理的な理由から、その圧倒的多数が同類たる人間をどうしても殺せなかったのだ。武器そのものに問題はなく、肉体的には殺す能力はじゅうぶんあったにもかかわらず、いざという瞬間になると、だれもが良心的兵役拒否者になり、目の前に立っている人間をころ好きになれなかったのである。
 すべてが、ここにひとつの力が作用していることを示している。つまり、先に述べた心理的な力である。教練よりも、仲間の圧力よりも強く、自己保存本能さえもしのぐ、強い力。その影響は、黒色火薬の時代や第二次世界大戦だけでなく、第一次世界大戦にも見ることができる。』(P80-1)
 第二次大戦中、ドッグファイトなど近距離での攻防が多かった戦闘機でも、アメリカ航空軍に撃墜された敵機の3〜40%は1パーセント未満のパイロットが撃墜したものとわかった。
 殺人はたやすいという神話の助長をするマスコミ、多くの映画で多くの敵を平気な顔で殺すヒーロー(ジェームズボンド、ルーク・スカイウォーカーランボーインディ・ジョーンズ)。それらは実態から遠い。『マスコミによる暴力描写が人々に教えようとしているのは、一生にわたる道徳的禁制も、そして存在するとすれば本能的な抵抗感もすべて含めて、人は簡単に投げ捨てられるものであり、戦闘では平然と罪の意識もなく人を殺せるものだということだ。実際に人を殺したことがあり、それについて語る気のある者は、しかしそれとはまったく違う話をする。』(P164)
 アメリカ軍、マーシャルの調査結果が明らかにした兵士の敵兵に対する発砲率の低さを真剣に受け止め、彼の提案に基づいた数多くの訓練方法が開発された。その結果、朝鮮戦争時には発砲率が55パーセントに上昇し、ベトナムでは90〜95パーセントに上昇。そのため現代の論者には、この発砲率からマーシャルは間違っていたとする人もいるが、そうした会義理御社は『第二次大戦以降に取り入れられた革命的な矯正法や訓練法の有効性を正しく認識していない』(P91)。
 『戦闘が六日間ぶっ通しで続くと全生存兵の九八パーセントが何らかの精神的被害を受けている。また、継続的戦闘に耐えられる二パーセントの兵士に共通する特性として、<攻撃的精神病質人格>の素因をもつ』(P102)。『「生まれながらの兵士」というべき人間は確かに存在する男同士の友情、スリルと興奮、物理的障害の克服に大きな満足を覚える人間である。殺人じたいが好きなわけではないが、戦争のように殺人を正当化する倫理的枠組みのなかで行われるならば、そしてまた、それが望ましい世界へ近づく代償であるならば、このような人々は殺人を少しも悪いこととは思わないだろう』(P293-4)そうした戦闘においても平静でいられる能力をもつ「生まれながらの兵士」のほとんどがコマンド型の特殊部隊に見出される。
 そうした精神的被害は、『前世紀までは、何年もつづく攻城戦のときでさえ、戦闘からはずれる休暇期間は非常に長かった。主に火砲や戦術がまだ未熟だったために、一人の人間が数時間以上もつづけて実際の危険にさらされることはめったになかったのだ。』(P102-3)しかし20世紀に入って『物理的・兵站的な許容量が増大して、人間の精神的許容量を完全に超えるような長期の戦闘になった』(P103)。
 戦争となれば、非殺人者(戦略爆撃や砲撃での民間人犠牲者、前線に偵察に赴く兵士、衛星隊員、戦闘中の将校)も殺人者と同様の過酷な条件にさらされ、死と負傷の危険に直面する状況があるが、そのほとんどの場面において精神的犠牲者はでない。第二次大戦では、都市への戦略爆撃第一次大戦の前線の兵士が精神的被害が多かったため、爆撃を行うことで都市でそうした被害を与えることを目的として行われたが、ある程度長期的な精神疾患は平時に比べてわずかな増加があっただけで、むしろ『空襲は人の心を奮い立たせ、それに耐えた者の殺人能力を高める役割を果たすようだ』(P119)った。『空爆や砲撃が心理的に効果があるのは、それが<憎悪の風>と結びつく前線においてのみである。前線では、そのような爆撃のあとにふつうは直接的な歩兵攻撃の脅威が控えているからだ。』(P153)
 砲手や爆撃機の乗組員や海軍将兵には、殺人への抵抗が見られない。それは個別直接的で殺すのではなく、自分と敵の間に距離と機械の介在しているため、自分は人間を殺していないと思い込むことができるため。
 襲撃・待ち伏せを目的とする斥候。事前に周到かつ徹底的な計画を立て、見方戦線を離れる前に入念なリハーサルを行う。実際に殺人を行う時間短く、リハーサルと似た展開になる。そのため精神的損傷起こしにくくなる。
 将校、殺人を実行するのは別人ということが緩衝材となって殺人の罪悪感から免れている。『ほとんどの戦争で、前線の指揮官が犠牲になる割合はつねにぶかよりはるかに高い(第一次大戦時、西部戦線に配属されたイギリス軍将校の二七パーセントが死亡したが、部下の死亡率は一二パーセントだった)。ところが、精神的戦闘犠牲者になる割合はたいてい優位に低いのである。(第一次大戦のイギリス軍では、将校が精神的戦闘犠牲者になる割合は部下の半分だった。)』(P131)戦場では兵の倍の死亡率だが、精神的に犠牲になる割合は兵の半分。
 また、食料や睡眠の欠乏状態、厳しい自然条件は、兵士の精神を現実逃避に傾きがちにするため、直接には精神的戦闘犠牲者生まないとしても、そうした犠牲者を生む遠因とはなるだろう。
 敵軍進入の恐れと近距離から対人的に攻撃される恐れがあるときは、現実には何も起きていなくても人々は動揺する。そのため敵の後方に攻撃部隊を派遣するほうが、広報への大々的な爆撃や前線での消耗戦よりはるかに効果的。実例としては、朝鮮戦争初期には第二次大戦の7倍の精神的犠牲者が発生したが、後方に敵の現れる脅威が減少したら精神的犠牲者が発生する確率が第二次大戦時を下回った。
 学習性無気力、逃げられない状態で電気ショックを繰り返し与えた犬は、感情鈍麻・無活動という抑鬱的無気力状態になり逃げられるようになってもショックから逃げようとしなくなる。しかし学習性無気力になる前に、逃げ道を与えられた犬はいつか逃げられるものと学習するため、長期にわたって不規則で不可避のショックを与えても逃げ道を与えれば逃げることができる。
 軍隊の基礎訓練キャンプ、軍人養成学校では、入隊した手の新兵がサディスティックな虐待や無理難題(つまり「電気ショック」)に直面しても、週末の休みや卒業で「逃げる」ことができる。そうしたことで、彼らは戦闘のストレスに対する予防接種を受けている(もちろん訓練はそれだけが目的ではないが)。
 練兵軍曹が新兵を怒鳴りつけたり(意図的に生み出された軽蔑)、米陸軍大学やイギリス空挺団で通過儀礼としてボクシングの試合をする(あからさまな身体的攻撃)をすることで、その状況を乗り越え卒業することになった新兵は『意識的にも無意識的にも、むきだしの対人的な攻撃に耐えられるようになった自分に気づく。つまり、憎悪に対して部分的な予防接種を済ませているのである。』(P156)軍が<憎悪の風>の本質や、その対策の必要性を理解していなくても、積み重ねられ制度化されたことで伝統としてこの種の予防接種は受け継がれてきている。
 指揮官に与えられる勲章やバッジ、どんな秀逸な指揮をしても避けられぬ戦闘の犠牲者がでる。しかしそうしたことを思い悩むことは精神的に危険。そのため、勲章などによる顕彰は指揮官の属する社会からの強力な肯定でその後の精神衛生上決定的に重要。
 兵士の使う言葉、殺すという後を避けて、敵兵を軽蔑的に呼ぶ、武器・装備におどろおどろしい死を連想させる名称を付けないこと。それらの言葉のいいかえによって、戦争の実態を否定しやすく、戦争を受け入れやすくして精神的被害を受けることを防ぐ。
 戦略爆撃では多くの民間人が死亡したが、それで精神的被害受けること少ない。一方でナチス強制収容所に入っていたものは、特定個人として死を望まれる、憎悪の風を浴びるため精神的被害を受けた人が多い。
 パイロットや砲手など、機械と距離で隔てられている場合、精神病的トラウマは発症しない。原発投下した兵士でさえそう。
 近距離戦闘(自分が特定の個人を殺したとはっきりわかる対人殺)で人を殺した場合、たいていの兵士はわずかな間だけ多幸感を得るが、ほとんど魔をおかず罪悪感の段階に入る。
 ナイフより槍のほうが強いというのは、単純な間合いの差という物理的要因だけではなく、同じ刃物でも離れて使える武器のほうが心理的に殺人は容易という心理的要因も関係しているのね。ふむふむ。
 また人を突き刺すことは、切ったり殴ったりするよりもずっと強烈な抵抗感があるため、切ったり殴ったりするほうが好まれる。
 グルカ兵など接近戦の伝統を持つ部隊は敵に特別な畏怖と恐怖をもたらす。『近距離殺人を行う意思、あるいは少なくともそんな殺人をあえてする敵だという評判、そこから生まれる強力な威嚇に直面すると、兵士の指揮には壊滅な影響が及ぶ』(P223)。
 格闘距離での殺人は本能的抵抗感が最大になる。素手で相手に大きなダメージを与えるのにいちばん有効で力学的に容易なのは人の目を突き刺すことだが、それには極めて強い生得的な抵抗感がある。
 『マーシャルは第二次大戦時の具体的な事例を数多くあげているが、それによると、戦闘中の兵士は、指揮官が見ていて激励しているあいだはほぼ全員が発砲するが、指揮官がその場を離れると発砲率はたちまち一五〜二〇パーセントに低下した。』(P245)戦闘における指揮官の存在、想像以上に大きい。また指揮官が軍事的正当性を持つことで、服従したいという欲求が満たされ、殺人行動が容易になる。
 『戦闘中の集団内では、この義務(仲間に対する)と匿名性(殺人に個人的に責任を負うという感覚が低下する)とが結びつき、殺人を可能にするうえで重要な役割を果たす。』(p257)警察が集団内の個人をできるだけ名前呼びするのは、集団と個人を引き離すよう教育されているためで、そうすると個人としての義務を負うことの自覚がよみがえるため、集団への義務感が弱まり、暴力が抑制される。
 古代の戦車、力学的にはコストの良い戦争の道具ではないが、心理的影響があるため有効な戦争の道具となり、長期間戦場を支配した。それには射手が高貴の身分だったこと、長距離兵器として弓を用いたこと、戦車は敵を追跡して背後から矢を射掛けるものだったことなどがある。しかし決定的だったのは、史上初の組扱いの武器で、御者と射手の二人乗りだった、それだけで義務と匿名性が発生していた。『第二次大戦中、ライフル銃手は一五〜二〇パーセントしか発射しなかったのに、組扱いの武器(機関銃など)では一〇〇パーセント近くが発砲されていた』(P258) 組扱いの武器であることで、それだけ差が生まれる。
 戦車を駆逐した方陣は部隊の陣形自体を大きな組扱いの武器にしたもので、当初は『ローマの陣形とちがって決まった指揮官はいなかったが、方陣を形成する兵士は強力な相互監視システムのもとにあり、突撃の際に仲間に気づかれずに敵の急所を攻撃しそこなうのはむずかしかった。肝心な瞬間に槍が上がっていたか下がっていたかは一目瞭然だからである。また言うまでもないことだが、義務が制度化されるだけでなく、兵士が密に集まることで高度な群集の匿名性も発生する。』(P259)
 ナチスの人種的・文化的優越のプロパガンダ、『第二次大戦のあらゆる段階において、ドイツ軍が殺した米英軍兵士の数は、米英両軍が殺したドイツ兵の数の一・五倍だった』(P270)という効果あったが、それと同時にプロパガンダナチスの最終的な敗北に大きく影響した。第二次世界大戦中、捕虜を丁重に扱ったことでアメリカ軍には敵が多く投降してきた。それに対して捕虜に苛烈な、不法な処置をすることは敵の抵抗を強めることにつながり、敵国の被抑圧層が国家を裏切る傾向という戦闘効果を高める要因を捨てることになる。
 植民地で支配者が現地の人を同じ人間を見なかったが、現地の人々が激しい蜂起をしたときにそうした文化的距離を逆に利用され、支配している白人を同じ人間と見ずに弾圧、殺害するようになる諸刃の剣でもある(例、セポイの乱、マウカウ団の蜂起)。
 相手がヘルメット被っていると兵士は発砲しやすくなる。国連平和部隊がベレー帽を好んで被るのは、それを知っているから。
 現代の訓練では、伝統的射撃訓練が先頭シミュレーターに変化した。前方に人型の的を出して、発砲というのを繰り返し、うまくいったら特権や褒賞、賞賛が与えられるから発砲行動さらに強化される。さらに合成樹脂の頭を付けたり、キャベツにケチャップをつめて頭部分にして、その頭が吹き飛ぶのをよく見るように指導して同様の射撃をさせたりする。そうした訓練を受けた兵士たちは緊急事態が起こった際に、シミュレーターだとわかる前に反射で教練どおりの行動ができるようになり、気づいたらことが終わっていたという体験をする報告・体験が多い。こうした条件付けプロセスで、第二次大戦以降のアメリカ兵の発砲率が劇的に上昇。
 また基礎訓練キャンプでの殺人の神聖視による<脱感作>、第一次大戦時になく、第二次大戦でも稀、朝鮮戦争で増加し、ベトナム戦争時に完全に制度化された。
 そうした訓練は、ベトナムでも本格的交戦では一度も米軍は敗れていということにつながるなど、『接近戦での圧倒的な優越性を意味する革命である。』(P401)
 しかしそうしたことは、大多数の兵士が自分は人に実際に発砲したか、発砲していなくても発砲できるとわかったこと(『頭の中ではすでに殺していた』という事実)によって、逃げ道がなくなる。そして通常殺人者しかわからない自分自身の側面を見せられることで、『一度も人を殺さなくても、殺人の罪悪感を共有する結果になりかねない』(P403)。
 『戦って「あっぱれ」な最期をとげる敵』(P315)を倒す『<高貴な殺人の場合>、殺人者はほとんど良心の呵責を感じることはない。したがって、倒した敵を称えることによって、自分の行為をさらに合理化することができる。殺した相手の高貴さによってみずからを高め、心の平和を得られる』(P316)。ということは、中世とかのそうした話は単純に自分の功を誇るだけじゃなくて、そうした効用もあったからこそ褒めていたという側面もあるのね。
 残虐行為、目先のつかの間の利益をもたらすものではあるかもしれないが、それと同時に未来に不利益を残す。また残虐行為には、モンゴルが抵抗した町や都市を徹底的に破壊させたことで、戦わずして数々の国を降参させたような有用性もあり、『個人でも国家でも、恐怖を無慈悲かつ効果的に行使して権力をにぎるのに成功した例は、地理的にも歴史的にも近いところにごろごろしている。』(P335)
 また『残虐行為を命じたものは、命令を実行したものに、そしてその大義に、罪悪感によって協力に結び付けられる。大義が成就しなかったら責任を問われるからだ。全体主義の独裁者の場合、指導者のため最後の最後まで戦うと信頼できるのは、秘密警察や親衛隊方の部隊である。』(P338)残虐行為が指導者(命令者)と実行者を強く結びつける、指導者が自分の忠実な手足を作る手段となる。
 残虐行為に際して犠牲者がしばしばおとなしく従ってしまうのが、彼ら彼女らの臆病さや無能さが理由ではない。『多くの人は臆病なのではなく、ただ人間の残虐性と言う事実に慣れていないのだ。そんなことは考えたこともなく(新聞やニュースで読んだり聞いたりしているのにまさかと思うかもしれないが)、いざとなるとどうしてよいかわからないのだ。悪逆非道に直面すると、あまりのことに呆然としてしまうのである。』(P333-4)