小さな藩の奇跡 伊予小松藩会所日記を読む

 kindleで読了。
 『城も無い、正式な武士はわずか数十人、藩内の人口は一万人余り、面積も人口も現在の村か町と同じ規模の藩』(N35)愛媛県にあった1万石の小松藩。
 小松藩『家老が公用の政務をつづった記録は「会所日記」といい、享保元年(一七一六)から慶応二年(一八六六)までの一五〇年間も書き続けられた膨大な量』(N216)。そのため内容は多岐にわたるがその中には藩の小ささもあって、藩士や領民の細々とした動静なども記録されている。そうした細々としたことを読めるのはいいね。

 「第一部 武士の暮らし」
 藩主の一柳家関ヶ原で東軍につき大阪城攻めにも参加した一柳直盛は西条に6万8600石を与えられる。その死後幕府は三人の息子に領土を三分割。そこで三男直頼が領したのが小松藩。その領土は1万石(大名と扱われる最低限の石高)にするために東西の領土に分かれている。長男・次男の家系は領土没収などがあって、四国に残ったのは直頼の家系のみ。そして小松藩は親藩天領に囲まれている。
 『小松藩内には町といえる規模の人口の密集地はなく、周布郡一一カ村及び新居郡四カ村の合計十五カ村で、ほかに藩が「町」と名前をつけた地域が一つだけある。領民の総数は一万人を少し超える程度で当初から明治維新まで特に際立った増減はなかった。』(N152)新居郡は東の飛び地。町は藩主の居宅である陣屋を中心にした武家屋敷の傍にあり、藩士の家族や下男たちを相手にする商人の家、寺などがある。『武家屋敷の区域のそばに、街道に沿って商人の家々が立てられることになった。地形のためか道の片側一列に並んで――もっとも軒を接してというほどではなく、まばらなものであったが――商人たちも済むようになった、蕎麦屋、居酒屋、宿屋、風呂屋などで、寺が近いためか葬具屋もあった。/ 商人の家々は東西に約二キロ続いていた。藩が「町」と称している小松藩内唯一の繁華街である。(中略)商人の「町」は家数207軒、総人口は九〇八人(天保九年・一八三八調)で、(中略)藩の財政が行き詰ると借入金や上納金の名目で金銀を徴収されるのは、おもにこの「町」の住民たちである。』(N165)そうした江戸時代の小さな町の描写も面白い。
 江戸中期の家臣約70人に加えて足軽・下男が約100人。家老は一人だけ、禄高400石。町奉行や普請奉行は100石ほど。
 藩へ提出された金の返済要求。『大きな商人だけからでなく、公家や近在の百姓からも金や米を借りている。すべてが真実であったのか不明であるが、氏名を名乗って証文を持参しているので、詐欺やだまし取ろうとするものは少なかったのであろう。それにしても、藩にこのような小口の借り入れが多くあることは知られていなかった事実である。』(N479)
 凶作などによる俸禄の大幅の減額。『どのようにして「お引米」の期間を過ごしてきたのか記録には見あたらない。憶測できることは、多くの武士が屋敷内に畑地をもっていて、それで食いつなぐことができたのであろう。』(N786)
 『藩主が新居郡を巡回するのは、小松藩にとって喜ばしいことではなかった。飛び地なので当然ながら西条藩領を通らねばならないからである。』(N1034)
 幕府の測量役人一行(伊能忠敬ら)がくるとわかって、応対するためにあれこれと準備している。偉業の裏で、受け入れ側もなかなか大変だったということが垣間見れて面白いというか。
 藩の財政、赤字財政。藩の年貢収入の約半分は参勤交代の旅費と江戸屋敷の維持費でなくなった。藩士30人と荷物を運搬する小物たちを合わせて百名ほどが約一カ月かけて江戸まで行く旅、陸路の往復の食費・宿泊費で1200両ほど。そして『藩主の江戸滞在の期間の費用や交際費を合計すると、銀二五〇貫(金で四〇〇〇両弱相当)が必要経費であった。』(N1229)
 その費用を賄うため、金を借りたり上納金を提出させた。上納金負担者には『褒美として終身の一代限りという条件で、苗字や帯刀が許可された。/ 文久三年(一八六三)の例をみると、この褒美も細分化されて、五両以上の上納をした者は袴をつけてよい、一〇両以上を上納したものは年始の挨拶の際に上下をつけて良い、となっている。五〇両以上を上納した者のみが苗字をつけて良い、と決められている。』(N1240)
 「第二部 領民の暮らし」
 『かなりの数の領民は、飛脚や他のなんらかの仕事と農業とを兼業していたのであろう。』(N1683)飛脚を兼業でしている人もいたのか。
 『賭博犯を通報し検挙を手伝うのが目明しであるが、もともと前科者で、改心したものを役人の手先として用いることから始まった。犯罪者であったから犯罪について詳しく、役人の補助として私的に使われていた。』(N1768)その目明しの中で色んな記録に登場する目明しの半平。彼が関わった色々な事件の話が出てくる。ある事件では捕らえた盗人が非正規の質屋に質入れした物を半平は人脈をたどって数日で探し出す。彼はそうした怪しい人脈持っていた。
 目明しは隣領の同業者たちとも互いに協力し合う関係であった。
 藩の規模が小さいが、それゆえ細かいところまで目が行き届いたともいえる。たとえば享保十七年の飢饉では四国全体に大きな被害があり、享保17-18年で餓死者が今治藩113人、松山藩5705人だったが、小松藩は0人だった。