「岩宿」の発見

「岩宿」の発見 (講談社文庫)

「岩宿」の発見 (講談社文庫)

 kindleで読了。
 それまで火山が盛んに活動していた関東ローム層の年代は人類は住んでいなかった時代だと思われていたが、岩宿で関東ローム層中に石器を発見したことでその定説を覆した在野の研究者の自伝的な本。主に子供時代に考古学に興味を持ちはじめ、23歳で岩宿遺跡の発見をするまでのことが書かれる。

 子供時代の著者は鎌倉で暮らしていた。妹の死をきっかけにして両親の仲が悪くなっていき、一家団欒的な空気がなくなっていく。そんな時に近くの工事場から出土する土器片に好奇心をかきたてられて集めていた。そして、それは大昔の人々が使ったものだということと昔の人々の暮らしを聞かされて、『夜、いろりの火をかこみながら家じゅうの人たちが話し合って暮らしていたということが、心のなかにじいんとしみこんでくるのだった。』(N282)その最初の印象は著者が考古学にはまる大きな理由となった。
 その後、父母が離婚して母と離れ離れになって弟妹とも別れることになる。兄弟妹はそれぞれ別の場所に預けられる。そして著者は浅草のはきもの屋で小僧として働きながら夜学に通った。
 昭和18年に桐生の父のもとに一旦帰った後、翌年2月海軍に入ることになる。その海軍時代に偶然に母と再会した。そして戦争が終わって19歳の著者は戦災にあわずにすんだ桐生へと戻る。
 そして戦後は桐生の長屋で生活していた。その頃に懇意になった隣家のおやじさんの買い出しに付き合ったエピソードがいいな。隣家の家族から、買い出しに言ってくれることを大変喜ばれる。しかしいまいち買い出しが上手くいかないので、著者は付添だけど丁稚時代のセールス経験を生かして交渉を頑張って何とか食料と交換できて無事帰った後の隣家の家族の顔に喜びや満足感が見える雰囲気もいい。
 その後著者は行商をするようになった。行商で村々を回る途中で、片面に赤土のついた少し変わった石片を見つけ、それがもしかしたら細石器の石剝片ではないかと感じる。『細石器というものは、それまでの日本ではまだあるかどうか不明であり、またそれは、より古い黎明期に栄えていた文化を物語るものだったのである。』(N1217)いくつか石剝片を見つけたが、加工された石器は見つけることができていないので見つけねばと思う。
 そして考古学への熱が増し同好の士や大学の先生たちと繋がりを持つようになる。そうした人たちの話を聞いて、『私の心のさびしさや孤独を癒やすための友として求め続けてきた、黎明期の祖先の遺跡や遺物が、歴史学、考古学という学問の立場から、そしてまたその研究上、実に重要なものであることを改めて知り、決して私的なものでなく、公的な大切なものであることも思い知らされた。』(N1781)そのため小さなものではあるが「東毛考古学研究所」を創立する。
 その頃は『各地で考古学ブームが起こり、発掘調査が活発になっていった。』(N1873)その弊害として著者と地盤を同じくするグループで、『縄文であろうと、弥生古墳文化であろうと、何でも珍しいもの、あるいは土中に埋まっているものでさえあれば手当たりしだいに発掘をし、異物あさりをやりだした。/ それだけならいいとしても、先輩たちの残された学問研究の書から適当に都合のいいところを抜粋し、史料を利用して記載したり、パンフレットにして配布するようになった。(中略)調査の目標も研究の主体性もないままに、ただ遺跡の珍品あさりに狂奔するだけなのだった。/ 加えて、彼らは、行商人のやっていることなど学問ではないとして、その地位を利用して私の調査に圧迫を加えてきたりした。』(N1885)というグループがでてくる。
 著者はそれまで来る人拒まずで訪ねてきた人に色んな事を教えていたが、教えた人の中からそうした人が出てきたことでうかつに話せなくなった。そんなこともあって『赤土の崖の謎は、うかつに話し合える人もなく、ただ私ひとりの追及となり、ひたすらに縄文早期の文化を追って、解明に努力していくより仕方なかったのである。』(N1898)
 その後著者は念願の定形石器をついに発見する。『ついに見つけた! 定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に……』(N2071)その石器を洗うために近くの沼辺に行くとそこで遊んでいた子供達が集まって来る。その子供たちに昔の人が使っていた石だと説明すると子供たちは綺麗だといながらその石を手に取り見る。著者は子供たちのそんな姿を見ながら、発見の感激に浸っているというシーンも好き。
 定形石器を発見したことで知り合いの芹沢先生に『このときはじめて、私は詳細に、赤土の崖での事実をお話しし、お教えいただきたい旨を述べ、何点かの資料をお見せしたのだった。』(N2144)見た芹沢先生も驚く。
 そして芹沢先生、杉原先生、岡本先生と著者で現地に行って調査をすることになる。そして石器を発見した例の崖面の発掘でも新しい完全な立派な石器が杉原先生によって掘り出される。『みんな、かたずをのむ。先生は無言でしばらくなでまわしていた。その手はふるえているようだった。』(N2255)
 この昭和24年9月の杉原先生らの発掘の成果が9月20日に新聞発表された。
 その後、昭和36年に県功労賞をもらった著者は、父親が病床に臥していた父親のもとにいく。功労賞で貰った賞状と銀盃をもって報告に行くと父は『「よかったなあ、おまえやみんなに苦労をかけてすまなかった」/ といって、何度も何度も、やせ細った手で銀杯をなでさするのだった。』(N2350)というエピソードもいい。