イワン・デニーソヴィチの一日

イワン・デニーソヴィチの一日 (新潮文庫)

イワン・デニーソヴィチの一日 (新潮文庫)

内容紹介
1962年の暮、全世界は驚きと感動で、この小説に目をみはった。当時作者は中学校の田舎教師であったが、その文学的完成度はもちろん、ソ連社会の現実をも深く認識させるものであったからである。スターリン暗黒時代の悲惨きわまる強制収容所の一日を初めてリアルに、しかも時には温もりをこめて描き、酷寒(マローズ)に閉ざされていたソヴェト文学界にロシア文学の伝統をよみがえらせた芸術作品。

 4、5年位前にはじめて読み、今回再読した。この本で扱われるシューホフ(=イワン・デニーソヴィチ)のある一日は、幸運にも恵まれ上手く立ち回れ、多くの食べ物を得ることができたラーゲルの中での「すばらしい一日」(P244)だから、読んでいて悲惨さはそんなに感じない。無論周りの人の状態(例えば、自分を律しきれなくなったフェチューコフなど)とか状況とかで、酷いことだなと感じる部分はあるけど。
 あと、佐藤優さんの本のどこかで読んだ記憶があるのだが、たしか著者であるソルジェニーツィンが入れられて作業をしていたラーゲルはモスクワだかどこかの都市でのことなんだっけ(実にふんわりとした記憶w)。都市名が思い出せず、wikiでみてみると、この本で書かれた経験の基礎となったのはカザフスタンかい。まあ、その前はモスクワやいくつかの労働収容所を転々としていたとあるから、そこでのことを、佐藤さんの友人が言ったのだろう(諧謔だか勘違いか知らぬが)。
 靴について思いをめぐらした時に、靴を二足もっていたことを理由に編上靴かフェルト靴の片一方を取り上げられる際、フェルト靴を選んだが、それでも編上靴を取り上げられたことについて思い出し、それが痛恨事で今編上靴もあればなと、すごく編上靴に未練があることが伝わる。ラーゲルのような物資が、本当最低限かそれ以下しかない場所において、物が一つ余計にあるということの豊かさが切実に感じられる。そのような普通の世界では些事たるものである小さな物が、普通の生活では小さな物が本当に生活の快適さに影響を与えるから、彼らの物への執着や、物を入手することへの切願するような感覚が強く、何か物を一つ手に入れたときに、読んでいるこちらにまでその喜びが伝わってくるので、こうした物が貴重な状況下での話を読むのが好きなんだ。
 しかし、マイナス41℃にならなければ作業が中止にならないとは、それだけでラーゲルの過酷さが分かる。それと、十分な衣類がないのに冬にはマイナス20度とか30度が平常の気温の中で作業するとは、人間というのは案外丈夫なものだね、いや適応しきれない人間はどんどん死んでいくから、生きている人を見ると丈夫に思えるだけかもしれないが。
 『ラーゲルの囚人たちが自分のために生きているのは、ただ朝飯の十分、昼飯の五分、晩飯の五分だけなのだ』(P24)具の少ない野菜汁、そしらマガーラという代用品の粥や「規定では」一日550グラムのパン、いつもそれくらいの食事であるのに、楽しみだというだけあって、入念に描写がされていることで、普通に食べたら不味いと感じるものでも、ラーゲルの中では喜びになるのだということがよく感じられ、朝昼晩の食事についてしっかりと描かれているが、それを読んでいてもその食事に喜びを得ていることが分かる描写だから、貧相なものでも不味そうだなんて全然思わない。
 シューホフ(=イワン・デニーソヴィチ)が医務室へ行ったとき『こんなしずかなところに、なんにもしないで、まるまる五分間も座っていられるなんて、まるで夢でもみている心地だった。』(P31)たった5分何もしないでいられることで、そんなに幸福を感じられる状況は凄まじいな。あと、タバコの品質だったり、タバコを吸えること自体の喜びも普通よりも非常に増幅されているのだろうけど、吸ったことないから、いまいちピンとこないなあ。発表当時だったら、世界中のほとんど誰でもタバコで得る喜びについてわかったのだろうけど、これが時代の流れかね。
 シューホフは、自分のパンの半分を少し後に取っておくために、マットレスの中ののこ屑の中に隠しているが、食料を入れてはちょっと汚いと思うところに隠すなあ。そんな隠し場所に工夫しないとすぐに誰かに取られてしまう、という食料が足りていない状況がよく伝わる。というか、一部の人に差し入れの小包で送られてくる物資込でもこの状況だから、それがもし無かったらどんな酷い状況か考えたらゾッとする。そういった乏しい物資の中でも、班長には部下たちが貰った差し入れの小包の中から幾分かが送られる。しかし、班長は少しでも楽な作業が出来る場所へ班が行くように、その物資を使って生産計画部に付け届けをしなければならないなど、ただでさえ少ない食料から看守らに付け届けしなければならないというのは色々とすごい状況だ。まあ、ラーゲルは外界とまるっきり隔絶された世界だと思っていたので、ラーゲルに差し入れの小包で食べ物や金銭さらに新聞も送ることが出来たということにも驚いたけど。まあ、金銭は個人貯蓄に回され、かび臭い菓子パンや決まった巻きタバコ、あるいは化粧石鹸などしか買うことが出来るものがないが。
 昼食のとき、幸運にも普段より、粥の皿をごまかすなどの功をあげ、食事の量が増えて、してやったりという喜びと、食事の喜びの両方が感じられるのはいいね。後で靴修理のナイフにしようと、のこぎりの破片を拾ったがうっかりそれを忘れていて、身体検査直前に気づいて隠し場所がずさんになったのに見つからなかったときの喜び、そして、のこぎりの破片にそんな価値が出るということは、ラーゲルで物を私有することがいかに困難であるかを物語っている、まあ、ラーゲルに限らず刑務所でナイフなんて持っていたら大問題だけど(笑)。そうやって、危険を冒してナイフを所持すれば、小包をもらった人がソーセージを切る時などに借りにくるから「結構稼げる」ようである。
 そして食料小包が来た人が来た食料を並べてみたり、友人とささやかな宴(といっても、届いた食料での食事だが)をしたりしているシーンは、お互いラーゲルにいる現状を一時でも、あるいは少しでも忘れるためか、どこか芝居じみていてそれが微笑ましい。
 ラストの随分食料にありつけた一日だから、人の善く内職稼ぎができないアリョーシュカにビスケット一枚を与えたシーンはいいね。まあ、ビスケット一枚、と書くとケチなようにも思えるかもしれないが、ラーゲルの中で何の見返りもなく食料を与えるというのはめったにできないことだからね。しかし、アリョーショカはビスケットを渡そうとしても、あなたの分があるのかと心配しているのを見ると、本当に善い人なんだね。